HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

世界の切り分け方

 社会人生活20日目。意識としては勿論社会人にしているつもりだが、研修の内容を考えれば未だスーツを纏った学生といった感が拭えず、社会人と名乗ることに非常におこがましさを感じる。

 

 世界の切り取り方って大事だなと、最近特に思う。世界の切り分け方というのは、ソシュールの言う「分節」の概念と同じものだと思う(ただし筆者はソシュールについて一切勉強したことがないので今のは凄くてきとうである。だからたぶん間違っている。そもそも筆者がまともに読んだことのある哲学者の有名な著書は「方法序説」と「悲しき熱帯」だけである。そして後者は世に出回っている二つの邦訳のうち最悪との呼び声の高い方を読んでしまい、全く意味が分からなかった)。筆者は「使用言語ごとに物事の捉え方、分け方が変わってくる。それは思考の方法そのものに甚大な影響を与える」というような内容を学んだ時、いたく感銘を受けた。本当にその通りだと思った。どこか雪国の民族の言葉では「雪」を表す単語が30以上あるという話や、虹は何色から成るかといった認識は国ごとに違うというのは、こうした話の分かりやすい例だろう。「もったいない」の英訳が難しいと言われるのはおそらく英単語でそれにドンピシャに対応する単語が無いからであって、それも世界の切り分け方が違うことに起因するのだと思われる。

 

 ただ、住んでいる文化・属している語族が同じでも、すなわち同じ日本人の間であっても、世界の切り取り方は個々人によって異なる。

 

 自分を例に挙げさせてもらうと、筆者は(最近だんだん分かるようになってきたが)塩・味噌・醤油ラーメンの違いが分からなかった。いや、頭ではもちろん差を理解しているのだが、実生活上の感覚としてそれらを敢えて区別する必要性を感じなかったため「ラーメン」で一括りにして生きてきた。普通の人は区別するのだろう。おそらく筆者は、この切り分け方をしていたがために味覚もあまりそれらの差異に気を払わなかったのだと思われる。

 

 今のは分かりやすい例だが、この切り分け方の違いというのは、あらゆる事象に関して、十人十色で存在するように思う。どこからどこまでを同じと認識し、どこからを「別物」として認識するのか。最近よく感じるのは、グループワークを行う際にグループ内でこの認識に齟齬が生じるということが、グループワークでの最大の難関であるということだ。「たぶん違う切り分け方をした方が正確なアウトプットを出せるな」と感じることがあっても、それを言い出せない。何故違う切り分け方をした方が上手く行きそうなのかということを、時間内に説明できる気がしないからだ。そこで時間を食って残り時間が短くなるよりは、最善とは言えない切り分け方をしてそこそこの成果を確実に残した方が良い・・・と考える。

 

 就活中にちらっと読んだ「東大生が書いた 問題を解く力を鍛えるケース問題ノート」という本では、汎用的な思考のフレームワークが数多く紹介されていた。曰く、思考する際に正しいフレームワーク(「切り分け方」または「構造」と言っても良いだろう)を用いることが大切であると。筆者はこれについて大変感銘を受けた。なるほど、適切でないフレームワークを用いて考えた時と、適切なフレームワークを用いて考えた時とでは、しっくりくる具合が全然違うのだ。やはり、どの観点から世界を切り分けるのかという問題は、何かを考える時にとても重要だ。ちなみにこの本はとてもオススメ。

 

 自分を取りまく環境をなるべく適切に切り分けて考えていくこと。これはとても難しが、かなり面白い作業でもある。実体験に基づいてああでもないこうでもないと試行(思考)錯誤を繰り返して、より明瞭に世界を捉えていきたい。

 

 今回は最近はまっている少女時代(今更過ぎて草)の曲にしようかと思ったんですが

なんかMVがあんまり好きじゃないのでやめました。というわけで全然関係ないシューゲイザーの曲にします。耽美的で暗い穴にどこまでも強く落ちていく感じが好き。

 

LUSH - NOTHING NATURAL – смотреть видео онлайн в Моем Мире | Alvitina C

 

 

 

リーダー

 入社前の花見大会(?)に行くことにしました。なんか、もういいです。びくついててもしょうがないっていうか、筆者には部活という、帰るべき場所的なsomewhereがあるので。社会で出会う人々にもし嫌われたりしても少なくとも部活は自分を受け入れてくれてた(ように自分は思っている)んだから、恐れるだけ無駄・・・という感じの強気で生きていこうと思います。前置きでした。

 

 「リーダー」というポジションがある。ある集団があったらそこにはリーダー以外のポジションも必ずあるのだが、このリーダーという立ち位置だけ、幼いころからやたらと耳にする。厳密にはその定義にもよるのだろうが、まあ、集団の最終的な意思決定を担うこのポジションが非常に重要であることは間違いない。その意味で、「リーダーシップを育む」という校則や目標によくありそうな標語に対して異論は全くない。しかし、なぜこのリーダーという役職が重要なのか、なぜ例えば「お調子者」ではなくリーダーというポジションばかりが要求されているのか、という問いが活発になされてきたとは思えない。やたら耳にする「リーダーシップ」というワードは、筆者に無意識化に違和感を与え続けてきた。しかし最近、その理由と言い張るに相応しい、リーダーという立ち位置の特殊性に気づいた。当たり前のことなのかもしれないが、筆者にとってはそれなりに面白い気付きだったので紹介させてもらう。

 

 神の見えざる手とはかの有名なアダム・スミスの言である。合理的な個人が銘々自己利益の最大化を図ることで、結果として社会全体の余剰も効率的に高まる。これ以上ないほどの自由放任主義への擁護のようにも取れる。そして、経済学という文脈を離れても、これは筆者の感覚と非常によく馴染むものだった。よほど他人に迷惑をかける者でもいない限り、お互いが好き勝手やれるということこそが、集団としての最高の幸せをもたらすのだと。だが、現実的にそれは必ずしも正しくないということが、大学生活で分かった気がする。迷惑をかけない限りでの好き勝手、自由放任が個々の効用を最大化し、結果その和も最大化するというこのイメージは、実は、「①個々人が自らの効用を最大化する術を熟知しており、②集団内でそれを実行可能である」という隠れた前提に基づいている。実際、そんなことはない。

 

 ①について見る前に、②について考える。とても本の好きな男がいたとしよう。一般にこの男は人と話すよりも一人で読書に耽る方が好きである。しかし、最低限の社交性は持ち合わせている。この時、ある集団の一員として行動しているこの男が常に本を読み続けることはあるだろうか。答えは勿論NOだ。とても付き合いが長くお互いのことをよく分かっていたり、そうでなくとも時々というくらいの頻度ならそういうこともあるだろうが、まともな人間であれば一緒にいる間常に一人で本を読むという行動はできない。

 では、本を読むという行為を禁じられたこの男はどうするか。社交性に反しないという制約のもと可能な限り自分の効用を最大化するにはどうするのだろうか。ここで、この男がその方法を知らないということは十分に有り得る。これが①の問題だ。

 

 上の仮定は飽くまで一例だが、このような状況に陥った時、自由放任では個々人の効用の最大化は達成されない。そこで、ある程度の強権性を持ち合わせたリーダーの存在が必要になってくる。リーダーがある程度集団の行動方針を決定することで、個々人の取れる選択肢は絞られていく。この限られた選択肢の中からであれば、個々人は自分の効用を最大化する選択肢を選び取れる可能性が高くなる。そしてその最適な選択肢が一定以上の満足度を達成するものであれば、基本的にメンバーが不満を抱くことはないだろう。

 このようにリーダーとは、権力を善用し、各構成員が各々幸せを掴みとれるようにするという役割である。結果としてそれは集団としての最善を達成する。勿論、複数人の効用を全て一定以上に保つことができるという保証は無い。だからせめて、メンバーの利得についてパレート最適な状態を実現すること、これこそがリーダーの責務である。

 しかし、その試みが失敗することもあろう。その時リーダーは心無いメンバーから非難される。しかし、そのメンバーがリーダーと同じ全体思考に立った上で提言をしたというなら話は別だが、何もせずリーダーの言うことを聞いただけだったというなら、彼にそんなことを言う資格は無い。要するに、全体を幸福にするという責務(義務)は、後にそれを非難するという権利と表裏一体なのであり、この義務の放棄は権利の放棄を意味する。筆者はそう考えている。別に、責務を回避するのが悪いということではなく、飽くまで、どちらの道を取るかということである。

 

 筆者は大学生活では基本的に義務と権利を放棄する道を採ってきた。単純に、全体幸福を考慮するのが面倒だからだ。しかし、自分の行動を人任せにしたがためにそれが良くない結果をもたらした際に非常に苦い思いを味わったことが何度もある。文句は言えない。だからこそ苦々しい。最悪の気分になる。あの時少しでも自分が考えていれば、と後悔の念が沸いてくる。だから、これからはなるべく集団の役に立つよう初めの段階から主体的に関わっていこうと思う。仮に失敗して無責任に文句だけ言うような奴がいたとしても、そいつは権利と義務に関して何も理解していない馬鹿だと思おう。

 

 以上のようにリーダーは、暗黙のうちに責任を引き受け全体思考を要求されるという特殊かつ難しいポジションである。さらに、本来は自分自身も一構成員として他のメンバーと同列に扱い、その上で全体の視野を持たないといけないという問題もある(これはおそらく非常に難しい)。以上、リーダーシップを学ばせる際はその理由として上記の事を伝えるべきだと思った次第(筆者の一個人としての考えに過ぎないが)。

 

 今日の一曲はコチラ。ポジティブで良い曲です。

Alesso - Heroes (We Could Be) (Official Music Video) ft. Tove Lo - YouTube

本質

 これガチな話なんだけど、煮ると茹でるの違いを分かっていません。

 

 就活では自己分析という作業をしばしば要求される。それが必要であることは筆者もそう思う。しかし、自己分析というのはちゃんとやればやるほど迷宮入りしやすいようにも思う。何故なら、マンガやアニメに登場するキャラクターのように単純な精神構造を持った成人など殆どいないだろうから。言葉で簡単に説明できるほど人は単純ではないだろう。というか、そんなに単純であってほしくない。私は○○だ、という形で簡潔に自己を他人に表明したところで、その断言に心から納得している自分など有り得るだろうか。もちろんできる場合もあるだろう。しかしそこに辿り着くには、長期にわたる慎重な省察を要するのではないだろうか。皮肉なことに、筆者がある程度納得のいく形で自己分析が捗るようになったなと感じ始めたのは膨大な時間を奪われる就活が終わってからだった。特に卒部後は、潤沢に時間を使える最後のチャンスを生かして存分に自分というものについて考えた。

 

 その過程で分かったのは、自分について理解が深まるととてもスッキリするということだ。ここで強調しておきたいのは、「分析の結果、仮に自分に問題があると分かったとしても、その結果に納得が行くのであればスッキリする」ということだ。そして実はこれは自分について考える場合だけではなくて、ごちゃついている問題に直面した時一般に言えることのようだ。要するに、筆者は問題の定式化が済んだ段階で満足する傾向にあるらしい。数学に例えると、一見よく分からない複雑な文章題を見て面食らった際、問題の意味を吟味して方程式を立てることに成功した時点で筆者は満足するのだ(数学では実際そうだ)。xを含む方程式が立ちさえすれば、回答するべきxの値は機械的に計算すれば出る。逆に方程式が立たない状態だと、もうどうしようもない。その間は不安だ。その不安状態を脱するには立式するしかない。そして立式するには問題に正面から向き合い、構造の本質を捉える必要がある。すなわち、自分がよく分かっていない問題に直面した時、(筆者にとって)不安を脱するには本質を見極めることが不可欠なのだ。

 

 筆者が本質という言葉をよく連呼するのにはおそらく上の様な背景があるのだと思う。本質を把握せずたまたま回答を導けたとしてもそこに再現性はないが、ひとたび構造を把握できさえすれば、たとえ問題文中の値が別の値になったとしても解を導ける。その意味で、本質の把握は長い人生を生きる上でたいへん重要になってくる筈だ。そしてこれこそが「抽象化して物事を考える能力」である。これは教育における数学の目的の一つだった気がするが、これには心から同意する。

 

 さて、現実に起こる不透明な状況を整理して把握する(=定式化)場合に役に立つと思われる思考法として学校の教科が提供する二大概念があると、筆者は思っている。その二大概念とは、「階層化」と「場合分け」である。前者はおそらく直接学ぶことは多くないだろうが、分かりやすい例としてノートを取る時を挙げられる。整然としたノートを取るには、第一章の第一節の第一何々、というように、項目を階層化することが重要だと思う。ノートを取るとき以外にも、様々な教科で無意識的に使う場面は多かった筈だ。場合分けは数Aの場合の数などでよく出てくる。特に確率の問題では、漏れなくダブりなく場合を数え分けることが必要になる。筆者は就活時にこれを「MECE」と呼ぶということを知ったが、これは物事を論理的に考える上でかなり有益であるようにも思う。しかし経験上、社会科の科目を学ぶ際に厳密にMECEで切り分けるとあまりに複雑になり却って分かりづらくなるということが多かったため、ほどほどの塩梅が大切だと思う。

 

 ちなみに筆者は当時好きだった子にどうラインするべきか全くわからずに途方に暮れていた時、考えられる全ての状態を場合分けした結果12個くらいの場合が出てきて、しかも結局今がどの状態なのか分からず何も解決しなかったということがある。こういう時は一か八かで出るしかないということだ。

 

 今回の曲です。MVのイメージだいぶ違うな

Avril Lavigne - Hot (Official Music Video) - YouTube

 

 

 

丸が好き。

 一人暮らしが始まった。椅子を新調したので異次元に快適である。そして炊飯にハマった。前置き終了

 

 丸が好きである。

 

 まず周知の事実だが、筆者は筋金入りの丸顔好きである。自分よりも丸顔を愛でている人には会ったことがない。丸顔の何がいいのか、その持ち主別に考えてみた。

 

★少年の丸顔・・・小学生もしくは童顔で幼い中学生くらいまでの丸顔は、弱さ、いじらしさの象徴だ。加えて、頬に過剰な肉が付いた小太りな子を見ると、一度ぶん殴ってからそれを治療するかのごとくぶにぶにと揉み解したくなる。

★少女の丸顔・・・完璧さの象徴で、神聖不可侵な存在である。顔面の骨格が変わらぬまま育つよう祈りを捧げずにはいられない。

★青壮年の男性の丸顔・・・例外的に、この層の丸顔には特に何も感じない。肉が付いている場合には寧ろ、苦労知らずのおぼっちゃまのまま育ったアダルトチルドレンなのではという偏見が脳裏をかすめてしまう。

★青壮年の女性の丸顔・・・無垢の象徴である。少女期の純粋な心を持ったまま育ったに違いない。ただ、その純真さを何者かに利用されないかどうかが非常に心配になる。

★老人男性の丸顔・・・優しそうな表情であればかなり印象が良い。いかつければ特にポジティブな印象は抱けない。

★老女の丸顔・・・これまで数十年間絶えず善徳を積んできた証であり、守らねばならぬか弱い存在。

 

 特に少女・青壮年の女性については、もう顔が丸ければその時点で90%くらいの確率で筆者のタイプである(チョロい・・・)。丸いに越したことは無い。顔が丸くて損をすることは絶対に無い。これは筆者が保証する。だから、もし筆写に顔が丸いねぇなどと言われたら、筆者が女性に贈る言葉の中でも最大級の賛辞を言われていると思っていい。ただ、社会人生活を目前に控えている筆者にとって、こんなことを言える人間はもうこれ以上はなかなか増えないだろう。

 しかし、有名人であれば惜しみなく褒めたとて誰にも文句を言われまい。そこで、筆者が丸顔好きであることの証明も兼ねて、見た目が好きな女優を5人紹介させていただこう。

 

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上から順に、

エミリー・ヴァン・キャンプ・・・かわいい。このぷっくりした頬は日本人受けしそ   うな気がするが、どうだろうか。

キャメロン・ディアス*1・・・完璧な最強。ちなみに、さすがに今は老けてしまったが、それはそれですごく気品のある顔立ちになっている(正直ヒドい写真も数多いが・・・)。

クロエ・グレース・モレッツ・・・今はもう見る影もないが、キックアス前後の全盛期はとてつもなくかわいかった。

キルスティン・ダンスト・・・サム・ライミスパイダーマンのMJ役。当時、なんてすばらしい美人なんだと思ったが、多くの人はブスだと感じているらしい。ロジャー・ウォーターズ*2ではないが、自己と他者の間に聳える超えられない壁を認識するには十分な衝撃であった。

エリザベス・オルセン・・・おそらく天使の生まれ変わりかと思われる。ワンダにはエンドゲームで帰ってきてほしい*3

 

 ・・・金髪白人女優が好きなだけなのではないか。自分でも疑わしくなってきたので、ここでその不安を払拭するための更なる証明をさせてほしい。

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・・・大松絵美(エミリン)。白人でも金髪でも女優でもないのでQ.E.D.。推しのYoutuber。普通に可愛いのに自分の可愛さに気づいていないところがまた良い。体(顔?)を張った芸風でエネルギッシュな投稿が多いので是非一度見て頂きたい。

 

 

 とまあここまで丸顔の良さを布教してきたが、実は筆者は丸顔そのものというより丸という観念そのものが好きなのではないかと最近思った。

 丸。〇。角が無い。故に、外から触れても傷つかない。また、強い外圧がかかってもうまく凹んだのちに弾性力で跳ね返したり、そのまま勢いを中心からそらしてやり過ごしたりできそうである。

 動的な視点に立てば、一巡して元に戻ってくるという性質も重要だ。書き出しの点から出発し、全ての方向を均等に見渡したのちに元の場所へと帰ってくる。そして当たり前だが、一筆書きが出来る。それも、✫マークとは違い至ってシンプルな過程を経るだけで。自己完結的に閉じた世界でもある。

 さらに、紙に書いた丸を上から見た時、紙をどんなに回しても見た目は全く変化しない。円形の紙に〇を書いた紙を被験者に見せ、その後で被験者に目隠しをさせて紙を回転させ、被験者の目隠しを外して何度回転したかを答えよと問うても全く分からないだろう。複数の候補を見つけることさえもできない。おそらくこのような性質を持つ平面図形は円だけだと思う(他にもあるのだろうか)。この唯一性。どこから見ても変わらずに最初の姿を貫いている。一貫した本質を常に体現していると言ってもよい。

 

 

 だから丸顔美人が好きだ。そして、私自身も丸の様な中身の人間で在りたいと思う。

 

 今日の曲。突き抜けるようなハイトーンが特徴的な軽快なナンバー。非の打ちどころがありません。いつ聞いても気分がよくなる。 

Scorpions - Don't Believe Her - HQ Audio - YouTube

 

*1:下ネタに耐性がある方は是非『メリーに首ったけ』を観てほしい。一作品としてもとてもオススメだが、何より役も含めて彼女が最高なので。

*2:詳しくは

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjVlubP7YbhAhXyGKYKHeO-BskQFjAAegQICBAB&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2582%25B6%25E3%2583%25BB%25E3%2582%25A6%25E3%2582%25A9%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25AB&usg=AOvVaw0yHQq4rDyTB1CyhtIsM3AP

 を参照。

*3:MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)作品において彼女が扮するワンダは、『Avengers Infinity War』で灰と化してしまった。

消費・投資

 遂に定期券が切れたので、北千住でカラオケするためだけにつくばエクスプレス2駅分を往復した。

 はっきり言ってそのままお化け屋敷にできそうなくらい古い、いやもはや壊れていると言った方がふさわしいような様相の家々。入ればぞんざいな扱いを受けるだろうという先入観を抱いてしまう、暗い飲食店。五反野駅周辺の広いとは言えない道路は、路駐している車や両手を妙に広げ幅を取りながらゆっくり歩く壮年男性、徐行する車やそれよりも速い速度で進む自転車でごった返し、ただ歩行するにもかなり神経を使う。同じ区でも、自宅から少し離れれば自分はstranger。その寂しい自意識を持て余しながらも歩き続けると、ほどなくして視界がぱっと開け、去来する轟音と共に灰色の横線が上下に飛び込んでくる。都道308号線と、その上を通る首都高速中央環状線。少し右に歩き、滅多に使うことのない歩行者用押しボタンを押して信号が変わるのを待つ。ボタンを押さなければ変わることの無かった信号の色が青に変わり、自分一人の為だけに止まらせた車の列を左右に見ながら十戒のごとく横断歩道を渡ってゆく。対岸に渡り切り、アスファルトの階段を足早に登る。登り切ると、無限の広さと奥行きを持った青空、その下を悠々と流れていく荒川、それらの青に負けじと一面に広がる緑の土手と川岸が出迎えてくれる。それまでの寂寥感が嘘のようだ。舗装されたのどかな道をそのまま右に歩き出す。左手に絶景を見ながら少し進み、左折して千住新橋を渡っていく。その間、荒川は自慢げに脇腹を見せつけてくるのだが、素直に感嘆することしかできない。橋を渡り終え、左折して先程いた場所の対岸の土手の道を少し歩き、下りていく。五反野駅側の世界とは微妙に雰囲気の異なる町へするすると滑り込み、マルイの裏からロータリーに入ればそこはもう北千住。めちゃくちゃな動線で歩く人込みに安心感を覚える。寂しさはもう無い。

 

 時々一人で自宅周辺を歩くが、必ずおセンチな気分になってしまう。そして自然と考え事をしてしまう。今回はそこで考えていた事の話。まずは下の図を見てほしい。

 

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たぶん、かなり多くの先人が既に考えたことのある行為の4分類

 これは、自分の予定を組むうえで分かりやすいフレームワークになりそうだと思った行為の4分類である。集団・個人というのはそのままの意味で、自分を含む複数人でやるのか、自分一人でやるのかということである。投資というのは、その行為により何かしら得るものがあり、今後の人生にプラスに作用する(と考えられる)行為。消費というのは、そこで得られる何かしらの快楽のみを目的に行う行為で、その後の人生に直接影響することはない。「措定」の記事でも消費・投資に触れ、そこではもう一つ「無駄」という概念を紹介したが、それは消極的自由にしかつながらない。今回、消費・投資の2つだけを扱っているのは、積極的自由を念頭に置いているからだ。次に、それぞれの領域について簡単に見ていこう。

①集団×投資

 例えば、部活やインターンなど。友達とスキーに行くことも、上達を目指すという側面においてはこの類型。

②集団×消費

 例えば、友達とのカラオケ(もちろん、本気で歌唱技術の向上を目指すのであれば①になる。ただ、消費と投資は本来厳密に区分できるものではなく、状況次第で変わり得る)。友達と過ごす場合は、何かを意識しなければ大抵この類型になる。

③個人×消費

 ゲームや漫画など様々。あまり説明の必要はないだろう。

④個人×投資

 最たる例が勉強。一人でスポーツの練習をすることもこの類型。他にも様々あるが、これも直感的に分かると思う。

 

 この4つのバランスを自分の中で考慮しつつ生きるのが得策であると筆者は思う。そして、その最適な配分というのは個人差があるはずだ。ここで、暴論であることを重々承知の上で敢えてラベリングをすれば、その最適配分が①にかなり偏っている人が「意識高い(系)」、②なら「陽キャパリピ」、③なら「陰キャ・ぼっち」、④なら「努力家」ということになるだろう(こういった「押し付けがましい命名」は好きではないが、イメージしやすさのため敢えてやってみた)。まあ、そこまで偏っている人というのは実際そんなに多くはなくて、大体の人は4つともある程度重視するんじゃないかと思う。また、仮に上の定義で行くならば、その人の属性というのは最適配分によって決まるだけの話であって、そこに優劣はないということになる(それにしても陽キャ陰キャというのは本当にひどい呼び分けだと思う)。

 筆者が今一番憂慮しているのが、②の代表例である「大勢の飲み会」に自分が求める頻度以上に参加することを要求されたらいやだなあということ。「自分の中のバランス的にとりあえず今は②の気分ではなく、同じだけの時間を③や④に回したい」という時に飲み会への欠席の意思表明をすると、「?」という反応をされることがある。「なんで?」と訊かれるとこちらとしても非常に困る。ここまでの話を伝えられれば向こうも納得してくれるだろうが、こんな話を長々とするわけにはいかない。「嘘も方便」というのはまさにこのような時の事を言うのだろう。ただ筆者は割と用事を偽って断ることに抵抗があるので、結構詰んでいる。まあでもそうは言ってられないのでこれから嘘をつきまくると思う(飲み会ではないが、このあたりの事情により参加を見送っているとある団体がある。分かる人には分かると思う)。世間一般にこういう事に対する理解がもっと広まればいいのにと本気で思う。

 

 最後に、筆者が思う4類型相互のなんとなくの関係に触れて終わろうと思う(多分に主観が入っている)。基本的に、人生の根幹をなすのが④と考えてよいだろう。ここでのスキルアップにより、他の3類型に多かれ少なかれ良い影響がある。個人的な経験のうち分かりやすいもので言うと、バンド練や部活はまさにこの流れの繰り返し。また、人間として最も崇高な価値が宿っているのは①だが、一方でこれを意味のあるレベルで行うことは容易ではない。反対に最も身近なのが③だが、これに偏りすぎてバランスが崩壊した経験は誰しもあると思う。そして、基本的に③よりも④の方が崇高さで言えば上位の行為だ。難しいのは②と④。この組み合わせに関しては甲乙つけがたいが、ここは結構個人差があるし、同じ人でも状況によりけりだろう。この見極めは難しいが、割と重要だ。

 

 今回は初めてのジャズです。しっとり感が良い一曲です。どうぞ。

Bill Evans - Waltz For Debby - YouTube

劣等感

 先日友達と3人で1泊のスノボ旅行に行き、夕方からは部屋でのんびりしていたのだが、そこでその内の一人に筆者が「ポットでお茶を点てる」行為が好きであるということを見抜かれた。また、別の日に知己と飲みに行った時、筆者が話をしながら無意識の内にプラスチックで表面を補強された四角いメニュー表の隣接する2つの頂点を机の隣接する2辺にあてがい、メニュー表の辺を斜辺とする直角三角形を維持したまま縦横の辺の長さの比を変えていたことを指摘(?)された。ほぼ無意識の内にしている癖や行動を見抜き、それを伝えられるあの瞬間は、何故か胸がすく。理解されているという安心感なのだろうか。

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このようにメニュー表を動かしていた。なぜこんなクソどうでもよい事のために図を作ったのか、謎は深まるばかり。

 

 今日は(今日も?)自己満足兼整理用の内省的なお話を。劣等感についてである。

 劣等感。これこそが(少なくとも今までの)筆者のアイデンティティであり、原動力であったように思う。切っても切れない、腐れ縁。

 どこで染みついたのかは大体見当がついている。一つは幼少期、3,4才頃の近所の公園にて積み重なった体験だろう。この時期の幼児の遊びと言えばただひたすら単純に体を動かすという類のものだったと思うが、同じ年齢の幼馴染の女の子ができて自分にできないということが多かった、様な気がする。さすがに記憶が定かではないが。ただ、ここで劣等感、悔しさを知ったのは間違いない。他には、PS1のテニスのゲームで父親に負け続け、その度に大泣きしていたこと。小学校に上がり、とある女子にひたすら「不器用」と言われたこと(自覚があった)、など。そして、自分を馬鹿にし、頼んでもいないのに劣等感を植え付けてくる同級生には少なくとも勉強でだけは絶対に負けたくないという思いが根底にあった。それが今の自分を形作っている基盤になったと思う。ただし、原動力が劣等感だから、「現状の自己の否定」が常につきまとった。このままじゃいけない、だから頑張る。ゼロという現状からプラスを目指すのではなく、マイナスという現状からゼロを目指す人生だった。それは子供にとって楽なスタンスではなかった。

 以前何かの記事でも書いた気がするが、とにかく中学生の間は自己肯定感が低かった。それは自分が「何者」にもなれていない屑だという自覚があったからだ。自分が「何者」かになれるまで、根源的な劣等感に端を発する「今この瞬間、現状の」自己への不満が終わることは無いと、感じていた。そして高校生の時に「何者」を「東大生」に設定した。文系であれば、東大以外の大学生になら基本的に時間の経過により自動的に「なる」ことができそうだと思っていたから。それは、自分で選び、勝ち得た「何者」とは言えない。だから、東大受験は本当に、自分が何者かになれるかどうか、現状の自分を否定し続ける心におさらばして自分を認められるようになれるかどうか、ゼロという地平に辿り着けるかどうかという、プレッシャーなんて言葉ではまだ不十分というくらいの大きなイベントだった。だからネットで自分の受験番号を見た時は、とにかくホッとした。

 さて、東大に入学し、これで劣等感はきれいさっぱり払拭されてのんびりしたキャンパスライフを送れるようになる・・・はずだったが、18年間で染みついた劣等感はカーペットにこぼしたシミの如く根強く筆者の心に張り付いており、簡単に拭えるものではなかった。何を思ったか、「運動部」という任意参加の団体、それも、所属していなかったとしても社会的に何の非難も浴びないような団体への所属を決めてしまった。唯一手に入れた「東大生」という肩書きは、受験勉強が得意ということ以外の情報を一切示さない。自分にも、他人にも。・・・それではあまりに寂しいだろう。勉強ができるという自信ではなく、勉強しかできないという劣等感が頭を擡げた。こうして、別の「何者」かになるべく、筆者は入部した。暗殺教室という漫画の中で主人公の殺せんせーが「二刀を持つ者は強い」という旨の話を生徒にする場面があるが、この場面がとても好きだ。まさに筆者の入部の動機だったからだ(正確には、「一刀しか持っていない自分が嫌」という意識だったが)。また、前回の記事で書いたことだが、組合せこそが凡人の武器になるという感覚に通じるものもある。

 今では任意取得の弐段を取って卒部した。つまり(自分の中では)部活をやり切り、「OB」という分かりやすい「何者」になることもできた。また、もうすぐ「東大生」ではなく「東大卒」という「何者」にグレードアップする。まあ、世間で言う所の文武両道(・・・くらいには言えると自分では思う)の何者かにはなれたと言えるだろう。これで流石に、22年間の劣等感は消えたか・・・?答えは、残念ながらノーだった。しかし、あと2,3年の内にその大部分が消滅するだろうという予感がしている。というのも、今現在自分が抱く劣等感の正体が「地に足つけたまともな大人」になりたいというものだと分かったからだ。これには自分的に色々な要件があるが、その一つに「自分一人で生活を送れる」というのがある。これだけでも色々な側面があるのだが、一番大きいのは経済的側面だ。これはもう、社会人にならないと絶対に解消できない。他にも様々な要件があるが、おそらく、あと2,3年以内におおかた解消できると踏んでいる。

 気になるのは、根底にある劣等感の大部分が拭えたその時に何が見えるのか、ということ。劣等感は駆逐するべき対象であると同時に行動の原動力でもあった。この原動力が無くなった時に自分が牙の抜けた家畜となっているか目を輝かせた探求者となっているか、もしくは満ち足りた老境に安息しているかはまだ分からない。その時に備えて、劣等感に代わる燃料を探していく必要がありそうだ。

 

 今回の曲です。この手のサビのある曲はシンプルに最高ですね。

白い花 ZONE フルPV視聴動画| nanapv

価値

 

 アサヒの極上キレアジが旨い。

 

 先日、同期のブログを拝読し、色々と共感した。めっちゃ分かるゥ!という箇所が多かった(バカっぽい言い方をお許しください)。その中でも知識を点、教養をその対角線と定義し、適切な複数の点を通る直線を引いて新たな点とするのが卒論(の理想)であるという箇所は、自分の中でそこまで言語化できていなかったもののなんとなく思っていたことを鮮やかに説明してくれたようで、とても良かった。また、点を選ぶ勘が大事で、突拍子のなさそうなところに対角線を引ける人間は強いという箇所は筆者自身がよく考えていたことでもある。今回はそのことについて、少し話したい。

 

 点の選択。そう、まさにこれが、現代を生きる上で凡人が意識すべきことだと思うのだ。

 

 ご存知の通り、現代の情報化社会においては、インターネットに接続できるデバイスを操る環境と能力が人並みにありさえすれば、大抵の情報やモノが手に入るし、ヒトとつながることも過去に比べれば遥かに容易であるはずだ。しかしこれは現代の中の現代に始まった訳ではない。遡れば大航海時代からヒト・モノ・情報の交流は爆発的に加速している。また、第二次産業における大量生産や飲食業界におけるチェーン店の快進撃も、欲しいものがいつでもどこでも手に入ることが時代の要請であることの証左となっている。

 ヒト・モノ・情報は手に入りやすい。しかし、経営資源と言われる中でもう一つ大事な要素であるカネだけは、(基本的には)簡単に手に入れることが出来ない。これはもう資本主義の摂理だろう。またカネを得るには、(不労所得を除けば)自営業だろうが株式会社で働こうが何らかの「価値」を提供するしかない。価値の対価として賃金が手に入る。

 一定の資源やノウハウが有れば、価値は生み出すことができる(商品の生産)。しかし、財・サービスの購入という形で実際にその価値を顧客に対して結実させる(商品の売約)には、当然ながら「差別化」が必要となる。当たり前すぎる三段論法により、自分/自社の提供価値を差別化できないとカネが手に入らないことが分かる。

 

 差別化の方法は物凄く大きく分けると3つある。一、価格を相場より低いものに設定する方法。二、自社の商品を購入しやすい環境を整えること。三、商品の内容を同業他者/他社のそれよりも優れたものにすること。このうち、二点目については先ほど触れた現代の潮流によりどんどん難しくなっていくだろう。

 となると、価格設定か商品内容で勝負することが重要になる。ただし、価格設定による差別化には当然、損益分岐点独占禁止法といった制約から来る限界がある。対して、基本的に商品内容は充実する分には特に規制を受けず、寧ろ歓待される。また、三つの方法のうち最も外部からの影響を受けにくそうだ。勿論、原材料の価格上昇など外部からの影響はいくらでも有り得るだろうが、商品内容の充実の本源は「発想」であり、これは無料だ(「発想税」などがあるディストピアがあったら面白いかも知れない。明日鑑賞予定の「華氏451度」はある意味でそれに近いだろう)。

 

 では発想による価値の差別化はどうすれば出来るのか。ここで冒頭の話に戻る。ここでは、点を提供価値として拡大して考えよう。(特に、普通の学士の)学術論文のキモというのはまさに点と点を直線結び、未だ存在しない点を導くことだろう。期待される新規性=価値の差別化とはそういうことだ。市場と同じように、学術の世界においても価値を結実させるには、すなわち卒論を受理されるにはこの価値の差別化が要件の一つとなっている。逆に、市場における発想による価値の差別化も、学術界と同様、複数点の選択による新しい点の発見という方法がかなり有力であると思われる。実際に今日、街は様々なコラボで溢れかえっている。もう一つの方法として既存の複数点によらずに全く新しい点をバンと打ち立てるというものがあるが、これはホモ・サピエンスが誕生してから20万年経ってしまった今日においてはおそらくもうほとんど不可能で、だからこそそれを成し遂げた人は産業界・学術界どちらでも天才と呼ばれるだろう。ただし、何をもって全く新しい点の創造と既存の複数点の延長とを区別するかという問題はある。論文の引用ルールを見るといつも思うのだが、どこまでが引用・援用・参考でどこからが自分の言葉なのかという明確な線引きは本来不可能だと思う。というか、たぶん厳密に考えれば我々の思考活動で完璧なオリジナルというのは有り得ない。まあ要するに、発想で差別化するにあたっては延長線作戦でよいのだ(というか、ほぼそれしかできない)。

 

 延長戦を引くには当然、複数の点を選択する必要がある。そして、その「組合せ」については、新しい点を打ち立てることができない99.99999%の人類すなわち凡人たる我々でも十分天才になれる可能性があると、筆者は思う。計算したところN角形に引ける対角線はN^2/2-(3/2)Nだ。まあ指数関数ほどではないがNが大きくなるにつれて引ける対角線の数は爆増していく。しかも、実際の点の分布はN角形ではないかもしれない。点がブワーっと分布されているかもしれない。こうなれば、単純に2点を選ぶ組合せとしてN^2/2-(1/2)N個の可能性があり、対角線よりもN個多いということになる。この世の大抵の分野=点には達人やマニア、専門家やプロと呼ばれる人たちが存在し、彼らを上回ることは殆ど不可能だ。出来るかもしれないが天才*1でもない限り一生を賭ける覚悟が必要だし、そもそも大抵の人はいかなる一点についてもそこでの頂点に到達しようとは思わない。つまり、天才・頂点になるN個の可能性は通常捨てざるを得ず、どの点でも必ず「自分(や自分の所属する組織)の上位互換」たる人間が存在するという事実が厳然と横たわっている。

 ただし、N^2/2-(1/2)N個の可能性がまだ残っている。Nがある程度大きければ、文字通り桁違いの数の可能性が残されている。とてつもない数なので、どれか1つの組合せを選ぶだけでオンリーワンになれる可能性が高い。その組み合わせを選んだ人が他にいたとしても、かなり数は絞られる筈だ。当然、そこでナンバーワンになれる確率はN個の既存の点を選ぶだけの時よりも遥かに高い。

 さらに、選ぶ点を2個から3個に増やせば組合せの総数はNの3次関数となる。もっと増やして行けば、もう手が付けられなくなる。我々が天才になれる可能性、いやそこまで言わないにしても、「差別化された価値を提供できる」可能性は、思ったより高くないだろうか。

 

 ただし一点注意しなければならないのが、「陳腐な組合せもある」ということだ。類似していて選ばれやすい組合せというのは確かにある。それを選んでも差別化された価値は提供できないだろう。選ぶこと自体にマイナスはないが、更に別の、意外な一点を加える必要がある。

 だから、斬新な組合せが求められるのだ。無数の選択肢の中から、ありそうでなかった、いやこの際、なさそうだし実際なかった組合せでもいい、そういった組合せを取り込んでいくことで我々は価値を発揮できるのではないか。これは何もビジネスやアカデミックな世界に限ることではなく、日常生活というレベルに拡大しても同じだ(というか、途中から明言することなくそちらを想定して書いていた)。点を人生経験として更に拡大して考えれば、基本的には数年生きただけで人は誰でもオンリーワンの組合せを持っている状態になる。順番という概念を導入すれば尚更だ。この意味で誰しも生きているだけでオンリーワンである。

 

 でもその事実に甘んじずに、より独特な組合せを取り入れて生きていけたらいいなと筆者は思う。途轍もなく漠然としているし、その為に何か意識的にしていることがあるわけでもないが。ただ、そのためにそもそもの「点」に色々と出会いたいというのは、前も書いたが今目指していることである。そういえば、躰道を選んだのも体操と武道という組合せに価値を感じたからというのは間違いなくあったな。あとこれは恐縮なんですが、このブログも「考察×音楽」というところでvalueを発揮したいと思っています。

 

 今日書いた価値についての話は産業、学術に加えて対人関係や芸術の領域でも全く同様に当てはまります。特に音楽なんてものは本当に影響してされての繰り返しで非常に面白いですね。比較的身近?なところだとBABYMETALなんて分かりやすいですね。バリバリのメタルとアイドルの組合せ、これは確実に(少なくとも)新規性は最高だったと思います。今回の曲も、組合せが面白いなと思ったものを選びました。まあ安直と言われればその通りなのですが、1:55辺りから日本語が入るEDMです。たとえば今話題のQUEENなんかもTeo Toriatte(手を取り合って) という一部日本語の曲を書いており別に海外のアーティストが日本語を取り入れることは珍しくもなんともないのですが、今回の曲は日本語パートが前後の流れとよくマッチしていて個人的にとても好きなので紹介します。...というか、今聞いてたらTeo Toriatteもとても良い曲だと思ったので2つ載せます。それではどうぞ、

 

KSHMR - Sleepwalk - YouTube

Queen - Teo Torriatte (Let Us Cling Together) - (Official Lyric Video) - YouTube

 

 

 

*1:本文中、3つの異なる意味で天才という語を用いた。全く新しい点を打ち立てる人、一点の能力が極めて高い人、想像を上回る点の組合せを発見する人の3種類だ。