HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

遊園地

 家にいるだけの人生が嫌で、勉強するためのよさげなカフェ、コワーキングスペースの開拓が続いており、結構なストックになってきた。今日は新宿で新規開拓した場所から書いている。

 

 突然だがあなたは仕事に満足しているだろうか。私は社会人となって早三年目、第一四半期も終えたというところだが、入社当時、いや遡れば内定者時代から、「仕事ってどんな感じなんだ???」という漠然とした不安、言うなればタレントがバラエティ番組で中身の見えない箱の中に存在する「何か」に手を触れ、その正体を思案している時のような不安があった。

 そして一年目の頃はダメダメな社員だったと思う。社会には暗黙のルールが多すぎて、ルールをはき違えると不興を買うし、かといって怯えすぎても何もできないという理不尽さを痛感していた。

 同時に、「職場ってオワコンだな」という確かな感覚も一年目の後半あたりから芽生えていた気がする。いや、弊社には変な人がほとんどいないし私は幸運なことに世のサラリーマンと比較してかなりホワイトな労働時間で働かせてもらっている自覚はあるのだが、それでもなお、このオワコン感は日増しに確信に変わっていった。

 理由はシンプルで、「仕事でネガティブな感情になる瞬間は腐るほどあるが、ポジティブな感情になる瞬間は誇張抜きで一秒たりともない」という現実に気づいたからだ。最初は、上にも書いた通り自分が新入社員ということもあり、全てが未知で能力不足であるが故にそう思うのかもしれない、時が経てば案外嬉しい出来事があったりするかもしれないからこの段階で決めつけるのはよしておこうということで、結論を見送っていた。

 だが二年目になってもこの感覚は変わらなかった。それどころか、ある程度自社のことや社会一般の常識みたいなものが分かり始め、自分の部署と他人の部署の比較等もできるようになってきたことで、「さすがにそれはどうなんだ?」と目上の人間に対して思う機会が増えていった。一年目の時は全方面に迷惑をかけすぎていてとても他人に対して不満を抱く暇も資格もなかったから見えていないことも多かったが、やはり一年間働いてみるというのは大きい。

 しかし、一生この絶望を感じながら生きていくのだけはごめんだということで、どうしたら仕事を通してポジティブな感情を獲得できるのか、分析してみた。要因は二つあるように思われる。一つ目は、やりがいのある仕事を任せてもらうこと。二つ目は、その仕事を上手くやり遂げるということだ。当たり前のようだが、こうした基礎的な要因分解は問題解決のスタート地点となり、最も重要と言って良い。

 まず、一つ目。これは、ある程度の人数のいる日系企業で働く場合、若手の場合は諦めた方がよい。野球部の一年生の球拾いと同じで、誰かがやらなければならないから下っ端がやるという構図になっている以上仕方がない。もちろん、自ら進んでやりがいのある仕事を見つけて参加すればよいというのはごもっともであるが、社会人にとってこうした理想論がどれほど無意味なものかというのは言うまでもない。カスみたいな業務を残業してまでやった後、さらに追加で仕事をしたいという人は多くないと思う。少なくとも私はそこまで仕事漬けになる人生を進んで選びたいとは思わない。

 二つ目については、これはひたすらに能力と経験を積み上げるほかにない。そして、経験は仕事をすることでしか得られないが、能力は勤務時間外に自己啓発することでしか身につかない、と私は思う。仕事を通して能力も身につくという面も多少はあるだろうが、殆どの場合、「既に割り当てられた業務を終えるための最低限の知識」しかつかないのではないだろうか。つまり、直面したことのない課題への対応力は一般に、仕事をしていると身につかない。

 一つ目と二つ目が揃って初めて仕事を通してポジティブな感情を得られる。したがって、一つ目も二つ目も若手時代では達成できない。つまり大手日系企業で若手のうちから仕事で幸福を得ることは不可能という結論に私は至った。なんと残酷な。

 結局仕事で幸福を得る唯一の解決策は、時間の経過を待つことだ。まともな企業なら年次が上がればそれなりにやりがいのある業務を任される。しかし、その仕事をまともにこなせないという事態にならないように、若手のうちから勉強していくしかない。だから、今は、時間を費やす価値の全く感じられない業務を最短スピードで終わらせて一秒でも早く帰宅し、将来に備えて自己研鑽に励むという生き方をしている。

 

 というように自分にとっての仕事の位置づけを完了させたら、そもそも幸せな時間とは何ぞやという問いへの答えも明確になってきた。それは、時間を費やしたいと思うことに時間を費やすことだ。また当たり前に聞こえる回答となってしまったが、自分の中では結構納得感がある。

 たとえば、私は料理の腕はほとんどないが、それでも、ほうれん草を炒めている時やホットワインを作っている時は、その時間そのものに対して価値を感じることい気づいた。これには自分でも驚いたのでよく考えたが、どれだけ考えてもやはり「その時間そのものが好きだから」という結論しか出なかった。つまり、私は台所に立っている時間を「数分後に食事をするための手段」ではなく「本能的な豊饒さを感じる目的」として捉えている。同じようなことは他にもある。私は何人かの同僚と同じアパートで暮らしているが、彼らが「最短だから」という理由で選ぶ通勤路を私は使わない。少し時間はかかるが個人的に好きな道を歩く。つまり、私は会社へたどり着くというための手段として通勤時間を見るというよりは、道そのものを歩くことを目的としている側面の方が大きい。在宅勤務の日まで態々外に出て歩くというわけではないので、もちろん通勤という手段的な面が前提としてはあるが。

 つまり、一般には何かの手段として捉えられる時間そのものに価値を感じることは可能だ。そういう時間が多い人生の方が豊かだと私は思う。そして、今すぐには不可能だが仕事も、単に「生計を立てる金稼ぎ」という手段ではなく、それそのものが楽しいと感じられるようになりたいのだ。その方が幸せに決まっている。その夢を叶えるためならどんな投資だって安いものだ。

 

 しかし、若手のうちの仕事を単純に年次を上げるための手段と完全に割り切るのは割と難しい。ささやかでもいいからどうにか、ポジティブな感情を得られないものか。こうした試行錯誤も大切だと思う。

 さて、「昔楽しめていたものを楽しめなくなる」というのはとても悲しいがよくあることである。私もありとあらゆる場面でそう感じることがあるが、特に顕著なのは遊園地だろう。あまり記憶にないが、おそらく昔は行くだけで楽しかった。だが、たぶん今、どんな遊園地に行っても心の底から楽しいと感じることは残念がら無いだろう。ディズニーランドに行くだけで、まさに魔法がかかったように興奮できる女性という生物がうらやましい(主語が巨大なのは許してほしい)と良く思っていた。

 だが、果たして彼女たちは本当に、心の底からどうしようもなく楽しくて、それが自然に挙動に発露しているのだろうか?もしかしたらそうではないのではないだろうかという興味深い仮説に最近至った。仮説と言っても別に根拠は何もないのだが、要するに、あれは本当に楽しくて舞い上がっているのではなく、「自発的に楽しむ」という無意識があるから為せるものなのではないかということだ。無論、ある程度ディズニーが「楽しい」環境であるというのはあるのだろう。ただそこに、自発的に「楽しむ」という、形容詞ではなく動詞的な意識を補完することで、興奮状態の発露という結果につながっているのではないだろうか。

 そうだとすれば、どうしようもなくつまらない仕事から少なくとも数年間は逃れられないという、おそらく同じことを感じている人の多い悩みを前にしても、希望を持つことはできる。「任される仕事」という環境に対して、こちらも無理矢理でもよいから楽しむという働きかけをしてみる。これはもう徹頭徹尾、自身の心持の問題であるからなかなか難しいかもしれないが、逆に自分次第でどうにでもできるということでもある。

 

 最強なのは、楽しい環境で楽しむということだろうが、そのような環境が用意されていない以上、せめて自分が楽しむ努力をするしかないだろう。そして、なんとなくそういう癖は大人になっていくほど失われていきがちな気はする。創意工夫でなんとかやっていきたい。

 ちなみに私は、如何に秒速で帰宅できるかというチャレンジを毎日行っていて(もちろん、やることはやって)、これだけでも結構ハリが出てくる。ただ、このような効率厨な態度にコロナ禍が相まって、本当に会社の人とは最低限の会話しかしなくなってしまいコミュニケーションが圧倒的に不足しているので、諸刃の剣ではある。そこだけはまだ解決策が見つかっていない深刻な悩みだ。

 

p.s. AXEのCMで流れているこの曲、alexandrosかと思ったら違いました。かなり好きです。

https://www.youtube.com/results?search_query=novelbright+pandora

 

 

ファッションと自他

 映画「テネット」を見てきました。クリストファー・ノーランの映画は時間という概念をこねくりまわして超速度でぶつけてくるので大変です。オサレ感はめっちゃ好きだし、有名な映画監督の中では断トツで一番好きで、authentic、という形容詞がぴったりな作品を作ってくれるのでありがたいのですが、とにかく難解で、全く分かりませんでした。関係のない前置きの終了。

 

 先ほど家に帰ってきてハットを外した時にビビッと気づいたのが、自分はなぜハットを外したのか、ということ。話は遡るが、一昔前まで自分はハットやイヤリング、首から下げるアクセサリー等に関して、自分が身に着ける上では「一切機能性のない無駄」だと捉えており、世間の人がどうしてそれらを身にまとうのか分からなかった。別にそれらを身に着ける人を不快に思っていたわけでは全くないけれど。

 

 しかし最近、少しだけだが身に着けるものへのこだわりというか、ファッションを楽しむという感覚が理解できたような気がしている。というのも、ファッションを楽しむ人というのはきっと「(自分が思う)良いものの一部でいたい」という気持ちがあるからなのでは?という仮説に至り、それは大変良く理解できるなと、腑に落ちたからである。

 

 どういうことかというと、昔は、先ほど挙げた「無駄な装身具」を身に着ける人の心理としては「他の人の目から見てかっこよく/かわいく/綺麗に思われたい!」とか、「俺/私っていけてるでしょ?」という意識が強いのかなあと、ずっともやもやしていたのだ。だとしたら、自分は同類になりたくないな・・・と思い、敢えて服飾関係に全く関心を示さないことにしていた。いきすぎた自己愛は不健全との信念がある。

 

 しかし、ファッションを楽しんでいる人の大半からは、別にそのような不健全な精神は感じ取れない。であれば、彼ら・彼女らは何ゆえファッションを楽しんでいる・・・?もう答えは一つしかなく、自己満足だ。先ほどの「他の人から見て~」という意識は、「他人に、自分の見方として特定のものを期待or強制している」状態と言える。それに対して、自己満足でのファッションは「ただ、そう在りたいからそう在る」というように、他者の目線を気にすることなく自分の存在法を(ある種のこだわりを持って)選んでいる、ということになる。これは大変健全でよろしい。基本的に他者の目線は気にしなければしないほど、現代では健全だと思う。自分はSNSでいいねを多く貰いたいという心理になったことはほとんどないが、そういう人は本当に生きづらいだろうなということは想像に難くない。

 

 自分がよいと思うものの一部になってみる。ファッションを健全に楽しむというのは、この本質的な喜びの発露の一形態であるように思われる。もちろん、体形や性別、年齢や顔つきによって手の届く範囲は決まってくるだろうが、それを受け入れた上でなりたい自分になるということだ。そこに他者の視線の強要を感じなければ、おしゃれを楽しんでいる人に対して人々が不愉快に感じることは無いはずだ。もちろん、シーンによってある程度求められる範囲が決まっていることはあるけれど。

 

 だがしかし、自分は先ほど部屋に入るなり真っ先にハットを外した。なぜだろう?ほんの少しだけ窮屈なのでリラックスするために外したいという無意識の欲求はあった。それは外でかぶっている最中にはほとんど気にならないレベルだが、その窮屈さを差し置いても、これらの無駄な装身具というものは外すことで負担する重さが減り楽になるという面がある。したがい、外にいる時よりも見た目と比べて機能性を重視したい家という環境においてハットを外したことに何ら不思議はない。

 

 であれば、なぜ外では家よりも見た目を重視するのだろう?ファッションが完全に自己満足であれば、外で機能性、家で見た目を重視したって問題ない。

 

 一つには、そのようにした場合、家で無駄に疲れるという点が挙げられる。寝転んだり、だらしない座り方をしたり、そもそも立ったり座ったりが多い家で、しっかりした服装をしていると動作がしづらいだろう。

 ただ、それと同等かそれよりも大きな要因として、やはり外という他人の目に映る場所で、在りたい自分で在りたいという欲求もあるのではないだろうか。これはなぜだろう。自分の思う美的価値観と共鳴する人がいればその人に良い心象を与えることができるという利他的な部分が大きいのだろうか。でも、あまりしっくりこない。何か別の根本的な要因があるのだろうか。その日の服装という自分の選択を咎められないことで、社会に認められている感覚?・・・そういうものが無意識下にあるのかもしれないが、分からない。心理学的な見地から解説を聞きたい今日この頃。

点と線(高校入試の国語の現代文に載せてほしいという前提で書きました)

 (4か月以上公開記事を書いていなかったらしいです。備忘用のプライベート記事はちょくちょくアップデートしていたけど、久しぶりにまとまった確信と余裕のある土曜日が到来したから、書かせていただきます。)

 

 結論を最初に書くと、自分で線を引ける人は素敵ですし、そういう人が増えればいいなという話です。

 

 まずもって点というのは何かというと、対象のことです。今見えているシャーペンでもいいし、部活で失敗したという事実でもよく、あるいはエクセルのシート上のセルに打ち込まれた数値でも何でもいい。もっと言うと、そのセルを含むシート全体だってよい。つまり、何かの集合体そのものを点として見ても良くて、その範囲も自由です。「〇〇ってこうだよなあ」と思った時の〇〇です。

 

 線というのは、その点同士の関係性、あるいは自分で結んだ道のりのこと。「この本は面白いなあ」と思った時、この本という点から面白いという点への矢印がある。給食がおいしいと思えば給食からおいしいへ線を引っ張ったということになる。帰納的な定義の仕方をしてしまいましたが意味は分かると思います。

 

 さて、この点と線ですが、身の回りのありとあらゆるもの、具体的には、五感で知覚しているものと、思案を巡らせることができるもの全てが点に成り得ることは説明しました。しかし線は、更に多く引くことができます。二点を結ぶ場合でもそうですが、これが三点を結ぶ場合となったらもう手に負えないくらい多く存在する。また、さっきの例でいうと、「面白いといったらやっぱりこの本」というように、矢印の向きを逆転すれば引ける線はますます多くなります。これは、数学で「順列」と「組み合わせ」を習った皆さんならお分かりのことかと思います。

 

 さて、実は世の中で面白いと感じられることと、真の学問の世界で求められることに、この点と線というテーマは深くかかわっています。順を追って説明しましょう。

 

 まず面白いことですが、これは大別して二つのパターンがあります。一つは、点自体が面白いこと。もう一つは、点の間に引かれた線が面白いということ。点自体が面白いというのは、世間では「単純に勢いで面白い」などと表現されることが多いです。面白いというのは、その人の頭の中にある点と線の世界になかった点や線がその人の頭の中に入っていく時に生まれ得る観念ですから、とりあえず目の前の人に、その人が全く体験したことのない何かを突きつければその人は面白いと感じる可能性があります(あるいは、とてつもなく嫌うかもしれません)。一方、線が面白いという場合、もちろん全く新しい点をぶち込んで強制的に新しい線を引かせる方法もあるのですが、必ずしもそうしなければならないわけではありません。その人の頭の中に既に引かれている二点の間で、その人が引いていなかった線を見つけてあげるだけでよいのです。いかにも簡単なことのように書いてしまいましたが、決して簡単ではありません。なぜなら、私たちが生活しているこの世界には、「決まり切った線」があまりにも多く、また私たちもそれをあまりにたやすく受け入れてしまいがちだからです。たとえば、世間ではサバの味噌煮とチョコレートケーキを一緒に食べる文化は浸透していないと思いますが、私が大学生のころは食堂でその組み合わせを好んで頼んでいました。サバの味噌煮という点とチョコレートケーキという点の間に引かれていなかった線を引いていたということになります。今のは極端な例ですが、料理研究家の方々の楽しみの一つに、「こうすると意外とおいしい」という発見があるのではないでしょうか。また、喩え突っ込みは世間でもよく知られた定番のお笑い技法ですが、これも線という観点で説明できます。ぱっと頭に浮かんだ例を紹介すると、人気お笑いコンビ、千鳥のノブが何かを食べた際に、その繊細な味を表現するために「King Gnuの歌い出しか」といったようなコメントを残していたのを覚えています(その時に流れたBGMと知名度・曲のイメージからしておそらく「白日」を想定してのコメントかと思います。余談ですが、筆者は圧倒的に「飛行艇」派です)。これを説明すると、「白日の歌い出しって繊細だよねー」という会話(白日の歌い出し→繊細)であればただの世間話(?)ですが、食べ物→繊細→白日の歌い出し、というように逆向きに点をつないだ途端に面白くなります。何故かというと、人々の頭には白日の歌い出し→繊細という線の引っ張り方はあっても、その逆はなかなかないからです。またこれは割と一般的に使える技法で、何らかの対象に対してある形容詞的な感想を抱いたら、次にその形容詞を感じさせる対象の話題になったときに今見つけた矢印の逆を引っ張るように心づもりしておくだけで、ある程度安定して面白さを提供できます。書いていてものすごく恥ずかしいですが。

 

 さて、皆さんが大人になると、必ず声や体格の大きな男性が執拗に「点」を飛ばしてくる場面に遭遇します。「飲み会」の「エピソードトーク」です。私は入社前の会社同期との飲み会で海外経験のエピソードトークの出し合い合戦に辟易し、自分のその先の人生がかなり心配になったことがあります。大学時代殆ど海外に行かず、語れるものと言えば躰道くらいしかしていなかった私が、対戦相手に全く触れずに相手が勝手に体勢を崩して場外になっただけなのにもかかわらず私の方が注意を受けたといったエピソードトークをしたところで、相手が分かるわけないじゃないですか。他の人のお話にふーんと繰り返すしかなかったのは言うまでもありません。

 

 さてここで彼らが何をしていたかというと、新鮮ではあるが理解できる点を出し続けていたのです。これがエピソードトークです。彼ら自身はその居酒屋においてはこの完成された点であるエピソードトークを出荷するだけでよいのです。もちろん厳密に言えばエピソードトークは、材料となる点が同じであっても話術で付加価値を加減できます。古典的に決まっている噺=点をいかに面白く話すかという落語家の方々はここに腐心されているわけで、もちろんその重要性は分かっているのですが、今回は割愛します。ということで、エピソードトークを(語り部でもない一般人が)行う場合の概ねの面白さは、すでにある「点」=過去に起こったこと、のインパクトで決まります(厳密には相手がどの程度想像できるのかという要素もあります)。そして私は、この点的な面白さには残念なことにかなりの耐性があります。線的な面白さを考えたり耳にしたりする方が圧倒的に好きだし、楽しめます。

 

 お気づきの方もいるかもしれませんが、点的な面白さ、すなわち新たに点を創造することは、尋常ではないほどに大変なことです。また、場合によってはその余地がほとんどないこともあります。例えば、私の個人的な想像ですが世に出る音楽に、もう全く新しいジャンルが生まれる余地は殆どないのではないでしょうか。〇〇メタルやオルタナティブ〇〇といったジャンルは、おそらく日々増えています。ただ、「カントリー」とか「ジャズ」とか、そうしたレベルの巨大な一山が生まれることは、もう想像できません(だからこそ、もしそういったものが新たに出来上がった暁には、私含め多くの人が驚嘆すると思います)。つまり、もうこの先の音楽の可能性というのは既存の点を配分を変えながら線でつないだものしかないのではないでしょうか。もちろん、先にも述べたとおりどこまでを一点として認識するかというのは人や時間によっていくらでも変わり得る問題なので、「ADMは他とは一線を画す画期的な発明だ」と言う人もいれば、「ジャズなんぞスピリチュアル、ラグタイム、ブルースのいいとこどりに過ぎん」と言う人もいるかもしれません。繰り返しますが、そこに正解はありません。

 

 ですから、点的な面白さを提供し続けようとすれば、かなり大変になるでしょう。毎日旅をして運よくハプニングに恵まれればよいですが、そんなドラマチックな生活を送る余裕のある人はほとんどいないと思います。そうではなくて、ありふれた日常に存在し、かつ世間では一般に認知されていない点同士に線を引っ張っていくことの方がまだ楽ですし、この線を引くという行為はまさにその人自身が生み出した付加価値です。わたしはすべらない話という番組が大好きですし、私自身がそのようなトークをすることもありますが、それで笑ってもらった時も「この人を笑わせたのは自分ではなく、運よく遭遇できたハプニングだ」と、どこかで感じています(でも別に気にしないでください)。反対に、線を引く行為を楽しんでもらった時は、生きててよかったと感じさえします。

 

 さて、このことは学術論文でもおそらく同じで、一介の学生が卒業論文ゲーム理論やら行動経済学やらといった巨大で独自の点を打ち出すことは殆ど不可能に近いでしょう。新しい点を生み出すのであればまだ、最新の時事問題について、研究が十分になされていない問題を考察する方が現実的です。ただしやり方によっては、その時事問題と、一般的な分析ツールを組み合わせる(=線を引く)という見方をすることもできます。思うに、論文で学生に求められる新規性というのは、現実的には点的な新規性ではなく、線が引かれていなかった点に対して新たに分析する線的な新規性なのではないでしょうか。私はきちんとした正式な論文を書かずに卒業してしまったので詳しいことは分かりませんが、テーマ選びの際にそのように教わった覚えはないので、このことがもっと広まれば全国の大学四年生の心労は少し晴れるのではないかと思います(あるいはこれは常識なのでしょうか)。

 

 面白さにしても学術上の価値にしても(あるいは芸術的な興味深さにしても)「新しい線」に私は魅力と可能性を感じているのですが(可能性については先ほども触れましたが数学的に理にかなっています)、私はこの「新しい線を引ける能力」こそが「思考力」だと考えています。もちろん大前提として、新しい線を多く引くにはその土台となる点をできるだけ多く自分の中に取り込んでいかなければなりませんが、ただ数多くの点を取り込んでいるだけの人が、頭の良い人だとは思いません。それは単純に物知りな人です。頭の良い人というのは、世間の常識では点Bへの線しか引かれていない点Aから、全く新しい線を引いて点Cに辿り着ける人のことだと思います。有名な観光名所を数多く知っている人ではなく、それらを結ぶ、隠れた素敵な小道を知っている人なのです。小道を多く見つけるには、「世間で示される線が本当に全てなのか、最良の道はそこに含まれているのか」といった疑いの眼差しを常に向け続ける精神が必要です。これこそが、「自分の頭で考える」ということであり、おそらく東大(というか全ての大学)が学生に求めている能力です。おそらくですが、外山滋比古先生が『思考の整理学』の中で言及されている「飛行機人間」とはこのような人を指していると思います(本書では対義語として「グライダー人間」という語が登場します。とてつもない名著だと思うのでおすすめです)。

 

 東大入試は単純に多くを知っていればいいのではなく、限られたリソースから自分の頭で考える必要のある良問が多い、といったような評価を昔よく目にしていましたが、最近その意味が分かるようになった気がします。たとえば英単語の暗記というのは英単語(点)とその和訳(点)の間の決まり切った線を点ごと内部化していく作業で、難しい英単語が並ぶ問題が多い入試問題があったとしたらそれは思考力に重きを置いている試験ではないということになります。対して東大入試の英語は、あまり英単語自体のレベルは高くなく、思考力を試される試験とよく言われていました。事実、難解な英単語の意味を文の流れから推測して回答せよという定番の問題がありました。知っている線がなければお終いなのではなく、自分で新しい線を引いてみろというメッセージの表れと言えるでしょう。また、受験生時代から筆者が感動していたのが世界史の大論述問題です。世界史が好きで、ややマニアックな点まで多くカバーしていた筆者にとっては、どうやって線をつないでいこうかとワクワクしながら解いていました(時間配分のある中、手に汗握るというか、手汗で解答用紙が湿りがちでもありました)。あの問題はまさに、与えられた単語群(点)を適切につないでいく(線を引く)という形式でした。学校の定期試験に出てくるような普通の問題でも、問題という点に対して適切な線を引いて解答という点に至るという流れではありますが、その点と点を結ぶ線の引き方を、殆どの場合授業で教わっています。いわば、線の引き方そのものを暗記しておきそれを試験時に再現する、要するに線をコピー&ペーストすれば事足りることがほとんどです。しかし東大の世界史の論述においては線のコピペはできません。なぜか。それは、問題の切り口が新しく、その切り口の通りに習っている確率が低いからです。要するに、登場する点自体は知っているものの、組み合わせたことのない点を即席で組み合わせる必要があるのです。点を知っていることを前提とした思考力を問うていると表現して間違いありません。

 

 最後に、人間関係に言及して終わりましょう。私は、お互いに自分で線を引き合いそれを素敵とか面白いとか思えるような関係性が理想だと思っています。こちらが魅力的な非日常を用意し続けなければ満足できず、最近面白いことないなと他力本願でぼやいている女よりも、何の変哲もない晴れの日の空の青さや、お店に出てくるまずくもおいしくもない料理のお皿の柄とか、どうでもいい点をたくさん共有して、そこから二人だけの旅を楽しんでくれる女性、雨が降っていても、隠された小道を歩むことそのものを楽しんでくれる女性の方がよっぽど魅力的だと思いませんか(ユーモアとは悲しい点から出発して楽しい点に辿り着く道を見つける能力のことです)。だから私は知性の感じられない女性に惹かれないのかもしれません。

 

問:著者の好みの女性はどんな女性か。

答:丸顔

解説:「現代文の問いの答え→本文を読めば分かる」という、広く流布した線を疑ってください。ちなみに、丸顔かつ知性のない女性と、丸顔ではないけれど知性のある女性の対比は、筆者にとって永遠のテーマの一つです。

 

↓ 本日の曲です。切なくて爽やかで大好きです。

https://www.youtube.com/watch?v=i9QVwoMzs_I

 

コロナ、ただひたすらにだるい

 高知県に旅行してきました。四国カルストっていう最高のロケーションがあってせっかく行ったのに、冬の路面凍結に備えて交通規制があって行けませんでした。残念。

 

 本気で生きていきたいです。正直に言って、この一年間は「何気なくのほほんと街を歩いているカップルなり夫婦、老夫婦」とかを見て自分もこうやって精神的にのほほんと暮らしたいなあと思って、「本気で生きなくてもある程度幸せを享受できている自分」という像を自分に演じさせていたような気分がある。絶対に心の中では危機感があるしその中の半分くらいにはしっかり向き合っているんだけど、残り半分くらいには無意識のうちに(違和感を感じつつも)フタをして生きてきてしまっていた気がする。

 

 極論、社会人になって自分で生活費を稼げるようになったので、生存することだけなら問題なくやっていける、という段階にはたどり着いたことになる。それがかえって少し自分の目、いや心を曇らせていたんではないか。経済的な安泰は自分の求める者の中の一部、というか大前提に過ぎない。何のための安泰なのかというと、ある程度の冒険に安心して挑み続けられるようにするための安泰でしょうが。安泰のための安泰じゃないのに。

 

 そもそも安泰しているのは経済面だけであって(というか、固定費や将来への投資費用が馬鹿にならないのでそれも今のところ怪しいけれども)、まだ精神的に安泰する位置に自分は到達していないはずだった。つぶすべき不安はまだ残っているのに、安泰しているふりをしていた。無邪気に笑っている場合ではない。

 

 絶対に手に入れたいもの、どうしてもなりたい自己像は確かにある。それは、「実現できなくても生きていけるけど、実現できたらめちゃくちゃ最高だから目指したい」といったものではない。「実現できなければ本気で落ち込むから、悲壮にも本気でチャレンジせざるを得ない」というものだ。プラスの追求ではなくマイナスの回避だ。今まではそれに明確に期限が定められていたから認識しやすかった(東大現役合格、卒部までに黒帯取得)から自然と危機感もあった。でも社会人になった今は、業務の締切以外で外部から何か挑戦目標の期限が設定されることが少ない。だから危機感を感じにくい。しかし、危機感というのは自分に降りかかるマイナスの可能性を認識してそれを回避しようと思うことで生まれるものだから、これを感じていないということはマイナスの可能性に向き合っていないということになる。そしてマイナスの可能性に向き合うことは幸せを得るために不可欠なことであるから、結局危機感をごまかしている限り自分が本当の幸せを掴むことは無い。

 

 そして経験上、危機感をもって本気で生きている時に「生きている」実感があった。死を意識することで逆に生が浮き彫りになるといった話はよくあるけど、まさにその通りで、経済的に安泰している以上物理的に死ぬ危険性はほぼゼロになったとしても、達成できなければ精神的に死ぬほど嫌だなってことはまだまだ残されているわけであって、そういった、自分としての死(「自己死」とでも言える)を意識して危機感に向き合っていると考えれば説明がつく。

 

 自分が手に入れたいものを手に入れつくして、なりたい自分に完全になれる日が来るまで、この「自己死の回避のために本気で生きる」という茨の道から逸れることはできないということになる。自分が身を置く環境と自分自身の在り方について、「こうだったらいいな」ということに比べて、「これだけは絶対に嫌」ということが多いんだろうな。そしてその分、ほかのことについては極端に拘りが少ない。ゆえに、とてつもなく歪な人間像が出来上がっているのだろう。

 

 マイナス回避に奔走しなきゃいけない日々はきっとあと10年くらいは続くんだろう。でも、本気で生きることができるならまあいいか。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=of1LV5OSz1g

 

 帰りの電車とか寝る前に聞いてみてほしい曲です。副交感神経に効果抜群。

ミキサーって憧れ(冒頭からめっちゃ汚いので読まないでください)

金曜日、高校の部活の後輩と同期とでオールの忘年会をした。そんなに酒が入っていないのに想定以上のカオスになった(その一端となっていたことを反省するつもりは皆無)。使用済みガムを付けられたハンガー、トランプで手札の一つとして組み込まれ吹っ飛ばされるクレジットカード、勝手にばらまかれた挙句局部に巻き付けられる千円札、M字禿に悩む後輩に植毛されていく先輩の陰毛。「最悪」以外の形容が不可能。

土曜日は夕方自由が丘までその同期を迎えに行き、首都高で浦安まで後輩を迎えに行った後、ついさっき通った湾岸線を反対に進んで赤レンガ倉庫へ。自動的に始まる鬼ごっこの後、ベンチでたたずむカップルの横で尻の毛の話をした(しばらくするとそのカップルはいなくなっていた)。その後コンビニで温かいスープなど買い、良い感じのイートインがあったのになぜか車中で食した。そして1時間弱しか滞在しないまま有料駐車場を後に。12月の深夜、屋根全開の後部座席で寒さに震え、絶叫しながらベイブリッジを通過して帰った。家に着いた時には3時を回っていた。「終了」以外の形容が不可能。

 

今は、暖房を利かせた部屋、コンビニで買ったグラタンを食べ、ホットココアを飲んでいる。なんだろうこのこの上ない幸せ。でも悔しいことに俺のルーツは間違いなく一昨日と昨日の世界にあって、根っこはきっと、抜け出せない。今日は、この前書いたテーマの延長。

 

個人的な考えだけど、人間は基本的に個人のインプットの量ではなくその人のアウトプットの成果で評価されるべきだと思う。だから、昔から理解できない価値観の代表に「親が金持ち」というステータスがある。で?としか思わない。自分につぎ込まれる資金(インプット)が大きいことを豪語されても、寧ろ期待されるアウトプットのレベルが高まるだけで辛くないか?

 

じゃそのアウトプットって何で決まるのかというと、①インプットの量や種類②その人の個性 だと思う。すなわち、y=f(x)でいうところのyがアウトプット、xが①のインプット、fが②の個性。当然、同じxを投入しても人によってfは異なるから、それぞれ違うyが出てくる。個人的にはxがステータスとなるのがバブル時代の価値観なように思う。まあもちろん、yを出すにはかならずxが必要となるわけだけど、ありふれたxから優れたyを出せるfの方に、圧倒的に憧れてしまう。ミキサーのように、見慣れた材料を投入したら全然違う形で出てくる人って面白いと思う。ただ、fはxを入れ続けることで変化していくだろう。そういう意味ではxも間違いなく大事だ。

 

そして、自分が出力したいyを出力できている状態が自己満足だが、そのyの評価法はこれまた人によって異なる。zを他人の感情、gをその人の個性だとすれば、z=g(y)=g(f(x))ということになる。つまり自分が相手に与える最終的な影響というのはg,f,xという3要素から決定されることになる。ここで、自分が出力したいyをY,最もよいzをZと置くと、Z=g(Y)となるような組み合わせの2人は、うまくいくと言えるだろう。gの持ち主は、fの持ち主が自己満足でアウトプットするYをインプットすることが最も幸せということだ。ウィンウィンである。fの持ち主は、そんなgの持ち主を見つけたら離さない方が良いだろう。

 

今回はこれ。ドライブに最高にマッチするんだわ。

https://www.youtube.com/watch?v=K0ibBPhiaG0

 

野菜は炒めれば食える

 1か月弱、別の会社で研修生として仕事をしていた。同期は全員どこかのタイミングでその会社に研修に行くことになるが、行ったことのある同期は口をそろえて「暇だ」と言う。定時に始まり定時に終わるという。俺も、研修初日に「残業の可能性はあるが、原則研修生が残業することはないようにしている」という説明を受けた。そして原則は俺には適用されなかった。死ぬほど集中して作業していても、案件が終わらない。その日のうちにここまでやらなければならないというのがあるから、なかなか帰れない。俺は結構不安になった。確かに、仕事が終わったあと家でめちゃめちゃ復習して最高の効率を達成するためにどう工夫すればよいかを寝る間も惜しんで考えればもっと早く作業をすることはできるだろう。でもそこまでするものなのか?周りの同期がそこまで根詰めているとは到底思えない。ならばなぜ自分だけこんなに残業が多いんだろう・・・ネタとかじゃなくて本当に脳の作りが悪いんだろうか。と不安になったが、最近になって、たまたま俺が本社に戻らないといけない公式の用事が多く、それを加味していないプログラムが組まれていたからだということが分かって、どちらかといえば消極的な安心と、ついでに人事に対する呆れを感じた。そんな研修が今日終わり、修了試験のようなものを余裕綽々満点で終えてきた。こういう時いつも思うのだが、さすが、とかすばらしい、とか言ってくれる周りの大人ってあれ本気で言っているんだろうか。普通にやっていれば簡単に分かるレベルのひねりのない穴埋め問題ができるということだけで褒められると、反応に困る。何もすごくないから逆に恥ずかしい。「東大卒」という肩書きの人間が期待通りの結果を示したから、それに対するテンプレの反応をすることで得られる安心感みたいなものなんだろうか。クソつまらない役割を演じさせられている?・・・自分でもどうしてここまでひねくれた見方をしてしまうんだろうとは思うけどね。

 

 という玉ねぎの賞味期限みたいに長い前置きでした。本題は社会人というか人生の捉え方の本質みたいなものがかなりすっきりした形で見えたという話、読んでほしい。完全に俺の主観だけど。

 

 人間にはざっくり2種類ある。INPUTで満足できる人間と、OUTPUTして初めて満足できる人間だ。前提としてOUTPUTをするためにはそれなりのINPUTが必要だ。だから当然、後者のタイプの人間の方が満足≒幸せを感じにくい。いや~~~、これだ。これだよこれ。中一の時から感じてて言語化できなかった感覚は。これですべてが説明できるんだよ、人文科学における大統一理論なんだよこれは。なんでこいつらはただ呼吸して親の金をすり減らしてるだけで、社会に1mmも貢献してないのにニコニコできるんだ?っていう、果てしのない違和感。せめて、将来人の役に立てるように今を一生懸命勉強しろよ、っていう言いようのない憤り。もちろん自分も例にもれず社会に何の貢献もしていないことに気づいてしまったから、自分も嫌いだった。ってほんとに悲しい話だなこれ。一旦こう感じてしまったら普通に救いようがないわね。

 ほんでまあ自分は確実に後者なわけであって、要するに幸せになりにくい。悲劇のヒロインを気取るつもりは本当に全くないけど、絶対にそうなんだ、たとえば俺はみんなでただ「おいし~」と言いながら飯を食うだけの会には虫唾が走ってしまうような悲しい星のもとに生まれついた人間なんだ。そうだったとしても誘われたら普通に嬉しいから行くけど、特に女の子たちがいる飲み会の時にしばしば感じてた。根本的に自分と何か違うんだけどそれは何なんだろうって。ちなみに、一番本当に吐き気がしたのは数か月前に部でいったゴルフコンペの打ち上げで、延々と続く上司の「これおいし~」に「そうですね~」と生気のないレシーブを返し続ける自分が心の底から無理だった、何かが死んだ気がした。いや、今考えても絶対にあの会はおかしかった。あんだけ人がいたんだから上の人がいくらでも盛り上げられるだろう。マジで終わってたよあれ。モノマネが面白い人が一人いて何とか助かったけど。で、いうまでもないけどその時は「今すぐ帰りたい」という感情しかなかった。その時間に意味がない。いや、俺だって腹が減ってるときにうまい飯を食うのは好きだ。誰かと食うのは好きだ。でもそれを、噛みつくして味のなくなったガムみたいに薄く引き伸ばした飲み会という形で実現したいとは思わない。その時間には何の価値もない。いや、ほんとに何してもいいってんならテキトーに本とか読んで過ごすよ?もしもルービックキューブが好きだったなら延々と6面を揃えていくのも悪くない。でも世間はそうした行動をとると間違いなく異常者のレッテルを貼るだろう(別に貼られ慣れてるから一向に構わないが)。でもなあ、ただひたすらおいしい、うまいを連呼することを強要してくるのはある種ハラスメントの領域だと思うんだよ。ウマハラとかどうだろうか。うまい飯を誰かと食うのは素晴らしいよ、でもそれが目的ならぱっと食ってぱっと解散ってんじゃあだめなのかい?おかしいかこの考え方?いや実のある話ができたり馬鹿みたいに面白ければ何時間だって飲み明かしたいけどさ。

 

 やばい福知山並みに脱線した。まあ上の話でしたかったのは、飯をただ食らうという行為はINPUTの代表格だってだけ。いや食という行為を嫌っているわけでは全くないんだけど(というかそれをやったらかなり大物の哲学者になれる気がする、宗教家の方が近いか?どうでもいい)、まあ、あれだ、これあんまり白日の下に堂々とは言えないんだけど、「こいつたぶん生活できる金を手に入れてうまい飯を毎日食えれば本当にそれだけで満足する人なんだろうな」っていう人、が結構いる。俺がその人の違う面を一切知らないという可能性はめちゃくちゃあるしそうであってほしいが、それはまれなケースなんじゃという直感もある。いや別にそういう生き方、というか感性を蔑む気は全くないけど、そう感じてしまうとその人と自分の間には海の底まで深く続く真っ黒な地割れみたいな断絶感を感じてしまう。これも直観だけどどちらのタイプの人間なのかというのは小学校入学時点くらいで決まっていて変わることはない。

 

 仕事の本質はOUTPUTだ。顧客、取引先に対して良いOUTPUTを出すこと。その対価に金をもらう。シンプルにそれだけの話だ。自分本位のOUTPUTではなく相手の求めにフィットするOUTPUTを出すこと。極めて当たり前のことだけど、「体感」として腹に落ちたのは恥ずかしながらようやっと数日前だ。そして良いOUTPUTを出すためにINPUTが欠かせない。INPUTし続けて(社会的に)価値のある=求められるOUTPUTを実現できる人間でなければならない。社会がそれを求めている。うん、先ほどの二元論から考えれば俺には向いているってことになる。でも仕事がはらむ最大の矛盾は「業務時間にまともなINPUTをする時間はほとんどなく、クソみたいなものだとしてもOUTPUTを出し続けることを強要する」点にある。いつか良いOUTPUTをするために試験的なOUTPUTが重要なことはよくわかる。OJTってやつだ。でも俺はきちんとINPUTをする時間をもっと取ってくれた方が、結果としてより良いOUTPUTにつながると思う。少なくとも俺はそうだ。またこの点は学生と社会人との差でもある。学生時代の授業は(小テストとかはあったにせよ)典型的なINPUT。試験がOUTPUT。そう、この流れで良い。正しい。社会人はOUTPUT→OUTPUTの連続だ。

 ただOUTPUTすれば満足できるわけじゃない。しっかりとINPUTしてきた人にしか出せない良いOUTPUTを出して誰かの役に立った時に初めて満足できるんじゃあないの。そうだろ。仕事のクソな点はやっぱりそこだ・・・。

 まあ、分かっている。俺が十分な量INPUTできれば問題は解決する。ほかのことを捨てれば家でINPUTはできる。ただ、いずれにせよ実際問題今この瞬間の自分の力量には不満しかない。一社会人として誰の役にも立ってない現状がある。その意味では自分は満足できない。ではどうやって心の健康を保つべきかというと、将来良いOUTPUTを出せるようになるために日々INPUTをしている、という自負、そこに自己満足を流し込むしかないだろう。ストックには不満があってもフローで満足すればOKということだ。

 

 いろいろ言ったんだけど、まとめると人生の意味ってOUTPUTして誰かの役に立つことなので、そうなれるように日々頑張ろうぜっていうくっそつまらない話になりますね、ハイ。

 

今回はこれです。歌詞の解釈を考えるのが楽しい。

https://www.youtube.com/watch?v=_4BLiOP1aaY

台風ってもう過ぎたん?

 最後にこのブログを書いてから、ほぼ半年が経とうとしていることに気づいて驚いている。しかも、別に今回は何か整理したい事柄がはっきりあるわけでもない。なんとなく最近書きたいなと思っていたから書くだけ。

 

 ほとんど家の外で何もできない日、しかも3連休の最初の1日ということで、午後はギターを弾いたり掃除機をかけたり、海外ドラマを3回分見たりした。簿記の勉強はとうとうやらずじまいで1日が終わろうとしている。ま、部屋も少し整理できたので、明日からは集中して勉強できるだろう。関係ないけど、特に外で何かするつもりもない土曜日って、気ままな時間に料理して食べられるのがなんだか素敵だね。平日はしっかりした飯を食う時間が12~13時でほぼ固定されてるから、新鮮(社会人ってのは、良くも悪くも規則正しすぎる)。

 

 で、その海外ドラマなんだけど。見てたのはシーズン3の最後の方のストーリーで、いよいよ本格的に面白くなってきたところだった。そしてなんでか、いたく感動して少し泣いてしまった。どういうシーンかというと、俺の1,2個くらい上の女の子が敵に洗脳されている間に大切な味方を何人も傷付けてしまった後(なんか振動?を出せる。かなり強い)、洗脳が溶けて味方の施設で隔離されているシーン。その部屋には本来であれば誰も入ってはいけないのだが、大柄で頼りになって優しい、その女の子の兄貴分的(彼氏ではない。彼氏は別にいる)なナイスガイが入っていく。ちなみにそのナイスガイは、その子が洗脳されている時に味方の静止を振り切り、まだ本来の彼女がいると信じてその子を取り戻そうとしていた。でもその時その子は完全に変わっていて、結局そのナイスガイを結構コテンパンにぶちのめしてしまう。

 部屋ですさまじい自己嫌悪に陥る女の子。男は「あの時のことは許す」と言う。動揺する女。正面から優しく歩み寄る男。「(洗脳が溶けたとはいえ)自分は危ないし、許されるざることをした」ということで拒絶する女(生理的にきもいとかそういう文脈ではなく)。それでも抱きしめようとする男。抵抗し遠ざけようとする女。二人の距離が少しだけあく。男がもう一度腕を伸ばすと、女が一転、飛び込む。「こんな資格ない」と泣きじゃくりながらも。

 

 いや~~~、こういうシーンだめだ。弱い。中学生の時、何の話だったか全然覚えてないけど、何度か親と本気でけんかをした。今でもはっきり覚えているのは、そのどれもが反抗期ゆえのものではなかったということだ。そういうけんかをするたびに、親に「反抗期」と片付けられた。俺も、もし自分が反抗期ゆえの幼稚で筋の通っていないことを言っている可能性はあるから冷静に検討しようと毎回思っていたが、やはり何度考えても自分が言っていることは感情的な要求ではなく、理論的に筋が通っていた。「これは反抗期の産物ではない」と心に記憶しておこうと強く思ったので、今でもそうだったということだけは覚えている。まあそういうことが幾度かあって、そこで精神的に自分と親の間に壊す予定のないベルリンの壁を築いてしまった。中学生っていう一番もろい時期に子供の言っていることを「反抗期」で片づけてしまう親、どれだけ論理的にこちらの主張を繰り返しても理解を示してくれない親ってどうなんだと。そしてけんかのたび、伝わらないことが悔しくてたまらなくて泣きじゃくり、最悪な気分で部屋に閉じこもり、最悪な気分で寝て翌数日は全ての会話を無視した。そこでまた反抗期と言われた。何も分かっていない。怒りで血管が切れそうだったが抑えた。

 

 あの時俺は、「悪かった。すまなかった。」と素直に言って抱きしめて欲しかったんだと思う。俺は拒絶するだろうけど、それでも抱きしめてくれたら、俺もいつか折れて感情が清算されたような気がする。

 

 結局、物心ついて以来、そういう熱い抱擁みたいなのを親としないまま大人になってしまった。葛藤を超えた先のこういう「赦しの抱擁」があるかどうかでその後の親との関係性は変わってくるんじゃないかという気がする。だからそういうのに対する憧れみたいなものがある、というか、非常に尊いと感じてしまうのかも知れない。

 

 それはさておき、あの時感じた人生最大級の悔しさみたいなものが、しばらく自分の原動力になっていたように思う。親への経済的な恩義を極小にしたいと思ったので、絶対に国立大学に受かろうと思った。浪人すると金がかかるので、現役で合格する必要もあり頑張った。

 

 最近はそういった悔しさを感じる機会がかなり減った。いや、正確に言えば他人に対して感じることが減った。すごく性格は悪いが能力があり自分のことを馬鹿にしてくるような同期や上司がいれば、超えてやろうとも思うのだろうが、あいにくみんないい人たちなので難しい(子供の時はそういう相手に事欠かなかった)。だから、もう悔しさの矛先として残されているのは自分しかない。理想と現実のギャップに悔しさを感じるしかないのだが、あんまりそれに縛られると、息苦しくて仕方ないだろう。かといって何の目標もなくフラフラ生きるのだけは性に合っていない。この辺の塩梅は、個人的に案外難しい。

 

 このカバー素敵すぎて今日ループしてます。よかったら聞いてください。

https://www.youtube.com/watch?v=GMtdqkWnTOk