HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

ファッションと自他

 映画「テネット」を見てきました。クリストファー・ノーランの映画は時間という概念をこねくりまわして超速度でぶつけてくるので大変です。オサレ感はめっちゃ好きだし、有名な映画監督の中では断トツで一番好きで、authentic、という形容詞がぴったりな作品を作ってくれるのでありがたいのですが、とにかく難解で、全く分かりませんでした。関係のない前置きの終了。

 

 先ほど家に帰ってきてハットを外した時にビビッと気づいたのが、自分はなぜハットを外したのか、ということ。話は遡るが、一昔前まで自分はハットやイヤリング、首から下げるアクセサリー等に関して、自分が身に着ける上では「一切機能性のない無駄」だと捉えており、世間の人がどうしてそれらを身にまとうのか分からなかった。別にそれらを身に着ける人を不快に思っていたわけでは全くないけれど。

 

 しかし最近、少しだけだが身に着けるものへのこだわりというか、ファッションを楽しむという感覚が理解できたような気がしている。というのも、ファッションを楽しむ人というのはきっと「(自分が思う)良いものの一部でいたい」という気持ちがあるからなのでは?という仮説に至り、それは大変良く理解できるなと、腑に落ちたからである。

 

 どういうことかというと、昔は、先ほど挙げた「無駄な装身具」を身に着ける人の心理としては「他の人の目から見てかっこよく/かわいく/綺麗に思われたい!」とか、「俺/私っていけてるでしょ?」という意識が強いのかなあと、ずっともやもやしていたのだ。だとしたら、自分は同類になりたくないな・・・と思い、敢えて服飾関係に全く関心を示さないことにしていた。いきすぎた自己愛は不健全との信念がある。

 

 しかし、ファッションを楽しんでいる人の大半からは、別にそのような不健全な精神は感じ取れない。であれば、彼ら・彼女らは何ゆえファッションを楽しんでいる・・・?もう答えは一つしかなく、自己満足だ。先ほどの「他の人から見て~」という意識は、「他人に、自分の見方として特定のものを期待or強制している」状態と言える。それに対して、自己満足でのファッションは「ただ、そう在りたいからそう在る」というように、他者の目線を気にすることなく自分の存在法を(ある種のこだわりを持って)選んでいる、ということになる。これは大変健全でよろしい。基本的に他者の目線は気にしなければしないほど、現代では健全だと思う。自分はSNSでいいねを多く貰いたいという心理になったことはほとんどないが、そういう人は本当に生きづらいだろうなということは想像に難くない。

 

 自分がよいと思うものの一部になってみる。ファッションを健全に楽しむというのは、この本質的な喜びの発露の一形態であるように思われる。もちろん、体形や性別、年齢や顔つきによって手の届く範囲は決まってくるだろうが、それを受け入れた上でなりたい自分になるということだ。そこに他者の視線の強要を感じなければ、おしゃれを楽しんでいる人に対して人々が不愉快に感じることは無いはずだ。もちろん、シーンによってある程度求められる範囲が決まっていることはあるけれど。

 

 だがしかし、自分は先ほど部屋に入るなり真っ先にハットを外した。なぜだろう?ほんの少しだけ窮屈なのでリラックスするために外したいという無意識の欲求はあった。それは外でかぶっている最中にはほとんど気にならないレベルだが、その窮屈さを差し置いても、これらの無駄な装身具というものは外すことで負担する重さが減り楽になるという面がある。したがい、外にいる時よりも見た目と比べて機能性を重視したい家という環境においてハットを外したことに何ら不思議はない。

 

 であれば、なぜ外では家よりも見た目を重視するのだろう?ファッションが完全に自己満足であれば、外で機能性、家で見た目を重視したって問題ない。

 

 一つには、そのようにした場合、家で無駄に疲れるという点が挙げられる。寝転んだり、だらしない座り方をしたり、そもそも立ったり座ったりが多い家で、しっかりした服装をしていると動作がしづらいだろう。

 ただ、それと同等かそれよりも大きな要因として、やはり外という他人の目に映る場所で、在りたい自分で在りたいという欲求もあるのではないだろうか。これはなぜだろう。自分の思う美的価値観と共鳴する人がいればその人に良い心象を与えることができるという利他的な部分が大きいのだろうか。でも、あまりしっくりこない。何か別の根本的な要因があるのだろうか。その日の服装という自分の選択を咎められないことで、社会に認められている感覚?・・・そういうものが無意識下にあるのかもしれないが、分からない。心理学的な見地から解説を聞きたい今日この頃。