HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

遊園地

 家にいるだけの人生が嫌で、勉強するためのよさげなカフェ、コワーキングスペースの開拓が続いており、結構なストックになってきた。今日は新宿で新規開拓した場所から書いている。

 

 突然だがあなたは仕事に満足しているだろうか。私は社会人となって早三年目、第一四半期も終えたというところだが、入社当時、いや遡れば内定者時代から、「仕事ってどんな感じなんだ???」という漠然とした不安、言うなればタレントがバラエティ番組で中身の見えない箱の中に存在する「何か」に手を触れ、その正体を思案している時のような不安があった。

 そして一年目の頃はダメダメな社員だったと思う。社会には暗黙のルールが多すぎて、ルールをはき違えると不興を買うし、かといって怯えすぎても何もできないという理不尽さを痛感していた。

 同時に、「職場ってオワコンだな」という確かな感覚も一年目の後半あたりから芽生えていた気がする。いや、弊社には変な人がほとんどいないし私は幸運なことに世のサラリーマンと比較してかなりホワイトな労働時間で働かせてもらっている自覚はあるのだが、それでもなお、このオワコン感は日増しに確信に変わっていった。

 理由はシンプルで、「仕事でネガティブな感情になる瞬間は腐るほどあるが、ポジティブな感情になる瞬間は誇張抜きで一秒たりともない」という現実に気づいたからだ。最初は、上にも書いた通り自分が新入社員ということもあり、全てが未知で能力不足であるが故にそう思うのかもしれない、時が経てば案外嬉しい出来事があったりするかもしれないからこの段階で決めつけるのはよしておこうということで、結論を見送っていた。

 だが二年目になってもこの感覚は変わらなかった。それどころか、ある程度自社のことや社会一般の常識みたいなものが分かり始め、自分の部署と他人の部署の比較等もできるようになってきたことで、「さすがにそれはどうなんだ?」と目上の人間に対して思う機会が増えていった。一年目の時は全方面に迷惑をかけすぎていてとても他人に対して不満を抱く暇も資格もなかったから見えていないことも多かったが、やはり一年間働いてみるというのは大きい。

 しかし、一生この絶望を感じながら生きていくのだけはごめんだということで、どうしたら仕事を通してポジティブな感情を獲得できるのか、分析してみた。要因は二つあるように思われる。一つ目は、やりがいのある仕事を任せてもらうこと。二つ目は、その仕事を上手くやり遂げるということだ。当たり前のようだが、こうした基礎的な要因分解は問題解決のスタート地点となり、最も重要と言って良い。

 まず、一つ目。これは、ある程度の人数のいる日系企業で働く場合、若手の場合は諦めた方がよい。野球部の一年生の球拾いと同じで、誰かがやらなければならないから下っ端がやるという構図になっている以上仕方がない。もちろん、自ら進んでやりがいのある仕事を見つけて参加すればよいというのはごもっともであるが、社会人にとってこうした理想論がどれほど無意味なものかというのは言うまでもない。カスみたいな業務を残業してまでやった後、さらに追加で仕事をしたいという人は多くないと思う。少なくとも私はそこまで仕事漬けになる人生を進んで選びたいとは思わない。

 二つ目については、これはひたすらに能力と経験を積み上げるほかにない。そして、経験は仕事をすることでしか得られないが、能力は勤務時間外に自己啓発することでしか身につかない、と私は思う。仕事を通して能力も身につくという面も多少はあるだろうが、殆どの場合、「既に割り当てられた業務を終えるための最低限の知識」しかつかないのではないだろうか。つまり、直面したことのない課題への対応力は一般に、仕事をしていると身につかない。

 一つ目と二つ目が揃って初めて仕事を通してポジティブな感情を得られる。したがって、一つ目も二つ目も若手時代では達成できない。つまり大手日系企業で若手のうちから仕事で幸福を得ることは不可能という結論に私は至った。なんと残酷な。

 結局仕事で幸福を得る唯一の解決策は、時間の経過を待つことだ。まともな企業なら年次が上がればそれなりにやりがいのある業務を任される。しかし、その仕事をまともにこなせないという事態にならないように、若手のうちから勉強していくしかない。だから、今は、時間を費やす価値の全く感じられない業務を最短スピードで終わらせて一秒でも早く帰宅し、将来に備えて自己研鑽に励むという生き方をしている。

 

 というように自分にとっての仕事の位置づけを完了させたら、そもそも幸せな時間とは何ぞやという問いへの答えも明確になってきた。それは、時間を費やしたいと思うことに時間を費やすことだ。また当たり前に聞こえる回答となってしまったが、自分の中では結構納得感がある。

 たとえば、私は料理の腕はほとんどないが、それでも、ほうれん草を炒めている時やホットワインを作っている時は、その時間そのものに対して価値を感じることい気づいた。これには自分でも驚いたのでよく考えたが、どれだけ考えてもやはり「その時間そのものが好きだから」という結論しか出なかった。つまり、私は台所に立っている時間を「数分後に食事をするための手段」ではなく「本能的な豊饒さを感じる目的」として捉えている。同じようなことは他にもある。私は何人かの同僚と同じアパートで暮らしているが、彼らが「最短だから」という理由で選ぶ通勤路を私は使わない。少し時間はかかるが個人的に好きな道を歩く。つまり、私は会社へたどり着くというための手段として通勤時間を見るというよりは、道そのものを歩くことを目的としている側面の方が大きい。在宅勤務の日まで態々外に出て歩くというわけではないので、もちろん通勤という手段的な面が前提としてはあるが。

 つまり、一般には何かの手段として捉えられる時間そのものに価値を感じることは可能だ。そういう時間が多い人生の方が豊かだと私は思う。そして、今すぐには不可能だが仕事も、単に「生計を立てる金稼ぎ」という手段ではなく、それそのものが楽しいと感じられるようになりたいのだ。その方が幸せに決まっている。その夢を叶えるためならどんな投資だって安いものだ。

 

 しかし、若手のうちの仕事を単純に年次を上げるための手段と完全に割り切るのは割と難しい。ささやかでもいいからどうにか、ポジティブな感情を得られないものか。こうした試行錯誤も大切だと思う。

 さて、「昔楽しめていたものを楽しめなくなる」というのはとても悲しいがよくあることである。私もありとあらゆる場面でそう感じることがあるが、特に顕著なのは遊園地だろう。あまり記憶にないが、おそらく昔は行くだけで楽しかった。だが、たぶん今、どんな遊園地に行っても心の底から楽しいと感じることは残念がら無いだろう。ディズニーランドに行くだけで、まさに魔法がかかったように興奮できる女性という生物がうらやましい(主語が巨大なのは許してほしい)と良く思っていた。

 だが、果たして彼女たちは本当に、心の底からどうしようもなく楽しくて、それが自然に挙動に発露しているのだろうか?もしかしたらそうではないのではないだろうかという興味深い仮説に最近至った。仮説と言っても別に根拠は何もないのだが、要するに、あれは本当に楽しくて舞い上がっているのではなく、「自発的に楽しむ」という無意識があるから為せるものなのではないかということだ。無論、ある程度ディズニーが「楽しい」環境であるというのはあるのだろう。ただそこに、自発的に「楽しむ」という、形容詞ではなく動詞的な意識を補完することで、興奮状態の発露という結果につながっているのではないだろうか。

 そうだとすれば、どうしようもなくつまらない仕事から少なくとも数年間は逃れられないという、おそらく同じことを感じている人の多い悩みを前にしても、希望を持つことはできる。「任される仕事」という環境に対して、こちらも無理矢理でもよいから楽しむという働きかけをしてみる。これはもう徹頭徹尾、自身の心持の問題であるからなかなか難しいかもしれないが、逆に自分次第でどうにでもできるということでもある。

 

 最強なのは、楽しい環境で楽しむということだろうが、そのような環境が用意されていない以上、せめて自分が楽しむ努力をするしかないだろう。そして、なんとなくそういう癖は大人になっていくほど失われていきがちな気はする。創意工夫でなんとかやっていきたい。

 ちなみに私は、如何に秒速で帰宅できるかというチャレンジを毎日行っていて(もちろん、やることはやって)、これだけでも結構ハリが出てくる。ただ、このような効率厨な態度にコロナ禍が相まって、本当に会社の人とは最低限の会話しかしなくなってしまいコミュニケーションが圧倒的に不足しているので、諸刃の剣ではある。そこだけはまだ解決策が見つかっていない深刻な悩みだ。

 

p.s. AXEのCMで流れているこの曲、alexandrosかと思ったら違いました。かなり好きです。

https://www.youtube.com/results?search_query=novelbright+pandora