HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

ミキサーって憧れ(冒頭からめっちゃ汚いので読まないでください)

金曜日、高校の部活の後輩と同期とでオールの忘年会をした。そんなに酒が入っていないのに想定以上のカオスになった(その一端となっていたことを反省するつもりは皆無)。使用済みガムを付けられたハンガー、トランプで手札の一つとして組み込まれ吹っ飛ばされるクレジットカード、勝手にばらまかれた挙句局部に巻き付けられる千円札、M字禿に悩む後輩に植毛されていく先輩の陰毛。「最悪」以外の形容が不可能。

土曜日は夕方自由が丘までその同期を迎えに行き、首都高で浦安まで後輩を迎えに行った後、ついさっき通った湾岸線を反対に進んで赤レンガ倉庫へ。自動的に始まる鬼ごっこの後、ベンチでたたずむカップルの横で尻の毛の話をした(しばらくするとそのカップルはいなくなっていた)。その後コンビニで温かいスープなど買い、良い感じのイートインがあったのになぜか車中で食した。そして1時間弱しか滞在しないまま有料駐車場を後に。12月の深夜、屋根全開の後部座席で寒さに震え、絶叫しながらベイブリッジを通過して帰った。家に着いた時には3時を回っていた。「終了」以外の形容が不可能。

 

今は、暖房を利かせた部屋、コンビニで買ったグラタンを食べ、ホットココアを飲んでいる。なんだろうこのこの上ない幸せ。でも悔しいことに俺のルーツは間違いなく一昨日と昨日の世界にあって、根っこはきっと、抜け出せない。今日は、この前書いたテーマの延長。

 

個人的な考えだけど、人間は基本的に個人のインプットの量ではなくその人のアウトプットの成果で評価されるべきだと思う。だから、昔から理解できない価値観の代表に「親が金持ち」というステータスがある。で?としか思わない。自分につぎ込まれる資金(インプット)が大きいことを豪語されても、寧ろ期待されるアウトプットのレベルが高まるだけで辛くないか?

 

じゃそのアウトプットって何で決まるのかというと、①インプットの量や種類②その人の個性 だと思う。すなわち、y=f(x)でいうところのyがアウトプット、xが①のインプット、fが②の個性。当然、同じxを投入しても人によってfは異なるから、それぞれ違うyが出てくる。個人的にはxがステータスとなるのがバブル時代の価値観なように思う。まあもちろん、yを出すにはかならずxが必要となるわけだけど、ありふれたxから優れたyを出せるfの方に、圧倒的に憧れてしまう。ミキサーのように、見慣れた材料を投入したら全然違う形で出てくる人って面白いと思う。ただ、fはxを入れ続けることで変化していくだろう。そういう意味ではxも間違いなく大事だ。

 

そして、自分が出力したいyを出力できている状態が自己満足だが、そのyの評価法はこれまた人によって異なる。zを他人の感情、gをその人の個性だとすれば、z=g(y)=g(f(x))ということになる。つまり自分が相手に与える最終的な影響というのはg,f,xという3要素から決定されることになる。ここで、自分が出力したいyをY,最もよいzをZと置くと、Z=g(Y)となるような組み合わせの2人は、うまくいくと言えるだろう。gの持ち主は、fの持ち主が自己満足でアウトプットするYをインプットすることが最も幸せということだ。ウィンウィンである。fの持ち主は、そんなgの持ち主を見つけたら離さない方が良いだろう。

 

今回はこれ。ドライブに最高にマッチするんだわ。

https://www.youtube.com/watch?v=K0ibBPhiaG0