HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

野菜は炒めれば食える

 1か月弱、別の会社で研修生として仕事をしていた。同期は全員どこかのタイミングでその会社に研修に行くことになるが、行ったことのある同期は口をそろえて「暇だ」と言う。定時に始まり定時に終わるという。俺も、研修初日に「残業の可能性はあるが、原則研修生が残業することはないようにしている」という説明を受けた。そして原則は俺には適用されなかった。死ぬほど集中して作業していても、案件が終わらない。その日のうちにここまでやらなければならないというのがあるから、なかなか帰れない。俺は結構不安になった。確かに、仕事が終わったあと家でめちゃめちゃ復習して最高の効率を達成するためにどう工夫すればよいかを寝る間も惜しんで考えればもっと早く作業をすることはできるだろう。でもそこまでするものなのか?周りの同期がそこまで根詰めているとは到底思えない。ならばなぜ自分だけこんなに残業が多いんだろう・・・ネタとかじゃなくて本当に脳の作りが悪いんだろうか。と不安になったが、最近になって、たまたま俺が本社に戻らないといけない公式の用事が多く、それを加味していないプログラムが組まれていたからだということが分かって、どちらかといえば消極的な安心と、ついでに人事に対する呆れを感じた。そんな研修が今日終わり、修了試験のようなものを余裕綽々満点で終えてきた。こういう時いつも思うのだが、さすが、とかすばらしい、とか言ってくれる周りの大人ってあれ本気で言っているんだろうか。普通にやっていれば簡単に分かるレベルのひねりのない穴埋め問題ができるということだけで褒められると、反応に困る。何もすごくないから逆に恥ずかしい。「東大卒」という肩書きの人間が期待通りの結果を示したから、それに対するテンプレの反応をすることで得られる安心感みたいなものなんだろうか。クソつまらない役割を演じさせられている?・・・自分でもどうしてここまでひねくれた見方をしてしまうんだろうとは思うけどね。

 

 という玉ねぎの賞味期限みたいに長い前置きでした。本題は社会人というか人生の捉え方の本質みたいなものがかなりすっきりした形で見えたという話、読んでほしい。完全に俺の主観だけど。

 

 人間にはざっくり2種類ある。INPUTで満足できる人間と、OUTPUTして初めて満足できる人間だ。前提としてOUTPUTをするためにはそれなりのINPUTが必要だ。だから当然、後者のタイプの人間の方が満足≒幸せを感じにくい。いや~~~、これだ。これだよこれ。中一の時から感じてて言語化できなかった感覚は。これですべてが説明できるんだよ、人文科学における大統一理論なんだよこれは。なんでこいつらはただ呼吸して親の金をすり減らしてるだけで、社会に1mmも貢献してないのにニコニコできるんだ?っていう、果てしのない違和感。せめて、将来人の役に立てるように今を一生懸命勉強しろよ、っていう言いようのない憤り。もちろん自分も例にもれず社会に何の貢献もしていないことに気づいてしまったから、自分も嫌いだった。ってほんとに悲しい話だなこれ。一旦こう感じてしまったら普通に救いようがないわね。

 ほんでまあ自分は確実に後者なわけであって、要するに幸せになりにくい。悲劇のヒロインを気取るつもりは本当に全くないけど、絶対にそうなんだ、たとえば俺はみんなでただ「おいし~」と言いながら飯を食うだけの会には虫唾が走ってしまうような悲しい星のもとに生まれついた人間なんだ。そうだったとしても誘われたら普通に嬉しいから行くけど、特に女の子たちがいる飲み会の時にしばしば感じてた。根本的に自分と何か違うんだけどそれは何なんだろうって。ちなみに、一番本当に吐き気がしたのは数か月前に部でいったゴルフコンペの打ち上げで、延々と続く上司の「これおいし~」に「そうですね~」と生気のないレシーブを返し続ける自分が心の底から無理だった、何かが死んだ気がした。いや、今考えても絶対にあの会はおかしかった。あんだけ人がいたんだから上の人がいくらでも盛り上げられるだろう。マジで終わってたよあれ。モノマネが面白い人が一人いて何とか助かったけど。で、いうまでもないけどその時は「今すぐ帰りたい」という感情しかなかった。その時間に意味がない。いや、俺だって腹が減ってるときにうまい飯を食うのは好きだ。誰かと食うのは好きだ。でもそれを、噛みつくして味のなくなったガムみたいに薄く引き伸ばした飲み会という形で実現したいとは思わない。その時間には何の価値もない。いや、ほんとに何してもいいってんならテキトーに本とか読んで過ごすよ?もしもルービックキューブが好きだったなら延々と6面を揃えていくのも悪くない。でも世間はそうした行動をとると間違いなく異常者のレッテルを貼るだろう(別に貼られ慣れてるから一向に構わないが)。でもなあ、ただひたすらおいしい、うまいを連呼することを強要してくるのはある種ハラスメントの領域だと思うんだよ。ウマハラとかどうだろうか。うまい飯を誰かと食うのは素晴らしいよ、でもそれが目的ならぱっと食ってぱっと解散ってんじゃあだめなのかい?おかしいかこの考え方?いや実のある話ができたり馬鹿みたいに面白ければ何時間だって飲み明かしたいけどさ。

 

 やばい福知山並みに脱線した。まあ上の話でしたかったのは、飯をただ食らうという行為はINPUTの代表格だってだけ。いや食という行為を嫌っているわけでは全くないんだけど(というかそれをやったらかなり大物の哲学者になれる気がする、宗教家の方が近いか?どうでもいい)、まあ、あれだ、これあんまり白日の下に堂々とは言えないんだけど、「こいつたぶん生活できる金を手に入れてうまい飯を毎日食えれば本当にそれだけで満足する人なんだろうな」っていう人、が結構いる。俺がその人の違う面を一切知らないという可能性はめちゃくちゃあるしそうであってほしいが、それはまれなケースなんじゃという直感もある。いや別にそういう生き方、というか感性を蔑む気は全くないけど、そう感じてしまうとその人と自分の間には海の底まで深く続く真っ黒な地割れみたいな断絶感を感じてしまう。これも直観だけどどちらのタイプの人間なのかというのは小学校入学時点くらいで決まっていて変わることはない。

 

 仕事の本質はOUTPUTだ。顧客、取引先に対して良いOUTPUTを出すこと。その対価に金をもらう。シンプルにそれだけの話だ。自分本位のOUTPUTではなく相手の求めにフィットするOUTPUTを出すこと。極めて当たり前のことだけど、「体感」として腹に落ちたのは恥ずかしながらようやっと数日前だ。そして良いOUTPUTを出すためにINPUTが欠かせない。INPUTし続けて(社会的に)価値のある=求められるOUTPUTを実現できる人間でなければならない。社会がそれを求めている。うん、先ほどの二元論から考えれば俺には向いているってことになる。でも仕事がはらむ最大の矛盾は「業務時間にまともなINPUTをする時間はほとんどなく、クソみたいなものだとしてもOUTPUTを出し続けることを強要する」点にある。いつか良いOUTPUTをするために試験的なOUTPUTが重要なことはよくわかる。OJTってやつだ。でも俺はきちんとINPUTをする時間をもっと取ってくれた方が、結果としてより良いOUTPUTにつながると思う。少なくとも俺はそうだ。またこの点は学生と社会人との差でもある。学生時代の授業は(小テストとかはあったにせよ)典型的なINPUT。試験がOUTPUT。そう、この流れで良い。正しい。社会人はOUTPUT→OUTPUTの連続だ。

 ただOUTPUTすれば満足できるわけじゃない。しっかりとINPUTしてきた人にしか出せない良いOUTPUTを出して誰かの役に立った時に初めて満足できるんじゃあないの。そうだろ。仕事のクソな点はやっぱりそこだ・・・。

 まあ、分かっている。俺が十分な量INPUTできれば問題は解決する。ほかのことを捨てれば家でINPUTはできる。ただ、いずれにせよ実際問題今この瞬間の自分の力量には不満しかない。一社会人として誰の役にも立ってない現状がある。その意味では自分は満足できない。ではどうやって心の健康を保つべきかというと、将来良いOUTPUTを出せるようになるために日々INPUTをしている、という自負、そこに自己満足を流し込むしかないだろう。ストックには不満があってもフローで満足すればOKということだ。

 

 いろいろ言ったんだけど、まとめると人生の意味ってOUTPUTして誰かの役に立つことなので、そうなれるように日々頑張ろうぜっていうくっそつまらない話になりますね、ハイ。

 

今回はこれです。歌詞の解釈を考えるのが楽しい。

https://www.youtube.com/watch?v=_4BLiOP1aaY