HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

点と線(高校入試の国語の現代文に載せてほしいという前提で書きました)

 (4か月以上公開記事を書いていなかったらしいです。備忘用のプライベート記事はちょくちょくアップデートしていたけど、久しぶりにまとまった確信と余裕のある土曜日が到来したから、書かせていただきます。)

 

 結論を最初に書くと、自分で線を引ける人は素敵ですし、そういう人が増えればいいなという話です。

 

 まずもって点というのは何かというと、対象のことです。今見えているシャーペンでもいいし、部活で失敗したという事実でもよく、あるいはエクセルのシート上のセルに打ち込まれた数値でも何でもいい。もっと言うと、そのセルを含むシート全体だってよい。つまり、何かの集合体そのものを点として見ても良くて、その範囲も自由です。「〇〇ってこうだよなあ」と思った時の〇〇です。

 

 線というのは、その点同士の関係性、あるいは自分で結んだ道のりのこと。「この本は面白いなあ」と思った時、この本という点から面白いという点への矢印がある。給食がおいしいと思えば給食からおいしいへ線を引っ張ったということになる。帰納的な定義の仕方をしてしまいましたが意味は分かると思います。

 

 さて、この点と線ですが、身の回りのありとあらゆるもの、具体的には、五感で知覚しているものと、思案を巡らせることができるもの全てが点に成り得ることは説明しました。しかし線は、更に多く引くことができます。二点を結ぶ場合でもそうですが、これが三点を結ぶ場合となったらもう手に負えないくらい多く存在する。また、さっきの例でいうと、「面白いといったらやっぱりこの本」というように、矢印の向きを逆転すれば引ける線はますます多くなります。これは、数学で「順列」と「組み合わせ」を習った皆さんならお分かりのことかと思います。

 

 さて、実は世の中で面白いと感じられることと、真の学問の世界で求められることに、この点と線というテーマは深くかかわっています。順を追って説明しましょう。

 

 まず面白いことですが、これは大別して二つのパターンがあります。一つは、点自体が面白いこと。もう一つは、点の間に引かれた線が面白いということ。点自体が面白いというのは、世間では「単純に勢いで面白い」などと表現されることが多いです。面白いというのは、その人の頭の中にある点と線の世界になかった点や線がその人の頭の中に入っていく時に生まれ得る観念ですから、とりあえず目の前の人に、その人が全く体験したことのない何かを突きつければその人は面白いと感じる可能性があります(あるいは、とてつもなく嫌うかもしれません)。一方、線が面白いという場合、もちろん全く新しい点をぶち込んで強制的に新しい線を引かせる方法もあるのですが、必ずしもそうしなければならないわけではありません。その人の頭の中に既に引かれている二点の間で、その人が引いていなかった線を見つけてあげるだけでよいのです。いかにも簡単なことのように書いてしまいましたが、決して簡単ではありません。なぜなら、私たちが生活しているこの世界には、「決まり切った線」があまりにも多く、また私たちもそれをあまりにたやすく受け入れてしまいがちだからです。たとえば、世間ではサバの味噌煮とチョコレートケーキを一緒に食べる文化は浸透していないと思いますが、私が大学生のころは食堂でその組み合わせを好んで頼んでいました。サバの味噌煮という点とチョコレートケーキという点の間に引かれていなかった線を引いていたということになります。今のは極端な例ですが、料理研究家の方々の楽しみの一つに、「こうすると意外とおいしい」という発見があるのではないでしょうか。また、喩え突っ込みは世間でもよく知られた定番のお笑い技法ですが、これも線という観点で説明できます。ぱっと頭に浮かんだ例を紹介すると、人気お笑いコンビ、千鳥のノブが何かを食べた際に、その繊細な味を表現するために「King Gnuの歌い出しか」といったようなコメントを残していたのを覚えています(その時に流れたBGMと知名度・曲のイメージからしておそらく「白日」を想定してのコメントかと思います。余談ですが、筆者は圧倒的に「飛行艇」派です)。これを説明すると、「白日の歌い出しって繊細だよねー」という会話(白日の歌い出し→繊細)であればただの世間話(?)ですが、食べ物→繊細→白日の歌い出し、というように逆向きに点をつないだ途端に面白くなります。何故かというと、人々の頭には白日の歌い出し→繊細という線の引っ張り方はあっても、その逆はなかなかないからです。またこれは割と一般的に使える技法で、何らかの対象に対してある形容詞的な感想を抱いたら、次にその形容詞を感じさせる対象の話題になったときに今見つけた矢印の逆を引っ張るように心づもりしておくだけで、ある程度安定して面白さを提供できます。書いていてものすごく恥ずかしいですが。

 

 さて、皆さんが大人になると、必ず声や体格の大きな男性が執拗に「点」を飛ばしてくる場面に遭遇します。「飲み会」の「エピソードトーク」です。私は入社前の会社同期との飲み会で海外経験のエピソードトークの出し合い合戦に辟易し、自分のその先の人生がかなり心配になったことがあります。大学時代殆ど海外に行かず、語れるものと言えば躰道くらいしかしていなかった私が、対戦相手に全く触れずに相手が勝手に体勢を崩して場外になっただけなのにもかかわらず私の方が注意を受けたといったエピソードトークをしたところで、相手が分かるわけないじゃないですか。他の人のお話にふーんと繰り返すしかなかったのは言うまでもありません。

 

 さてここで彼らが何をしていたかというと、新鮮ではあるが理解できる点を出し続けていたのです。これがエピソードトークです。彼ら自身はその居酒屋においてはこの完成された点であるエピソードトークを出荷するだけでよいのです。もちろん厳密に言えばエピソードトークは、材料となる点が同じであっても話術で付加価値を加減できます。古典的に決まっている噺=点をいかに面白く話すかという落語家の方々はここに腐心されているわけで、もちろんその重要性は分かっているのですが、今回は割愛します。ということで、エピソードトークを(語り部でもない一般人が)行う場合の概ねの面白さは、すでにある「点」=過去に起こったこと、のインパクトで決まります(厳密には相手がどの程度想像できるのかという要素もあります)。そして私は、この点的な面白さには残念なことにかなりの耐性があります。線的な面白さを考えたり耳にしたりする方が圧倒的に好きだし、楽しめます。

 

 お気づきの方もいるかもしれませんが、点的な面白さ、すなわち新たに点を創造することは、尋常ではないほどに大変なことです。また、場合によってはその余地がほとんどないこともあります。例えば、私の個人的な想像ですが世に出る音楽に、もう全く新しいジャンルが生まれる余地は殆どないのではないでしょうか。〇〇メタルやオルタナティブ〇〇といったジャンルは、おそらく日々増えています。ただ、「カントリー」とか「ジャズ」とか、そうしたレベルの巨大な一山が生まれることは、もう想像できません(だからこそ、もしそういったものが新たに出来上がった暁には、私含め多くの人が驚嘆すると思います)。つまり、もうこの先の音楽の可能性というのは既存の点を配分を変えながら線でつないだものしかないのではないでしょうか。もちろん、先にも述べたとおりどこまでを一点として認識するかというのは人や時間によっていくらでも変わり得る問題なので、「ADMは他とは一線を画す画期的な発明だ」と言う人もいれば、「ジャズなんぞスピリチュアル、ラグタイム、ブルースのいいとこどりに過ぎん」と言う人もいるかもしれません。繰り返しますが、そこに正解はありません。

 

 ですから、点的な面白さを提供し続けようとすれば、かなり大変になるでしょう。毎日旅をして運よくハプニングに恵まれればよいですが、そんなドラマチックな生活を送る余裕のある人はほとんどいないと思います。そうではなくて、ありふれた日常に存在し、かつ世間では一般に認知されていない点同士に線を引っ張っていくことの方がまだ楽ですし、この線を引くという行為はまさにその人自身が生み出した付加価値です。わたしはすべらない話という番組が大好きですし、私自身がそのようなトークをすることもありますが、それで笑ってもらった時も「この人を笑わせたのは自分ではなく、運よく遭遇できたハプニングだ」と、どこかで感じています(でも別に気にしないでください)。反対に、線を引く行為を楽しんでもらった時は、生きててよかったと感じさえします。

 

 さて、このことは学術論文でもおそらく同じで、一介の学生が卒業論文ゲーム理論やら行動経済学やらといった巨大で独自の点を打ち出すことは殆ど不可能に近いでしょう。新しい点を生み出すのであればまだ、最新の時事問題について、研究が十分になされていない問題を考察する方が現実的です。ただしやり方によっては、その時事問題と、一般的な分析ツールを組み合わせる(=線を引く)という見方をすることもできます。思うに、論文で学生に求められる新規性というのは、現実的には点的な新規性ではなく、線が引かれていなかった点に対して新たに分析する線的な新規性なのではないでしょうか。私はきちんとした正式な論文を書かずに卒業してしまったので詳しいことは分かりませんが、テーマ選びの際にそのように教わった覚えはないので、このことがもっと広まれば全国の大学四年生の心労は少し晴れるのではないかと思います(あるいはこれは常識なのでしょうか)。

 

 面白さにしても学術上の価値にしても(あるいは芸術的な興味深さにしても)「新しい線」に私は魅力と可能性を感じているのですが(可能性については先ほども触れましたが数学的に理にかなっています)、私はこの「新しい線を引ける能力」こそが「思考力」だと考えています。もちろん大前提として、新しい線を多く引くにはその土台となる点をできるだけ多く自分の中に取り込んでいかなければなりませんが、ただ数多くの点を取り込んでいるだけの人が、頭の良い人だとは思いません。それは単純に物知りな人です。頭の良い人というのは、世間の常識では点Bへの線しか引かれていない点Aから、全く新しい線を引いて点Cに辿り着ける人のことだと思います。有名な観光名所を数多く知っている人ではなく、それらを結ぶ、隠れた素敵な小道を知っている人なのです。小道を多く見つけるには、「世間で示される線が本当に全てなのか、最良の道はそこに含まれているのか」といった疑いの眼差しを常に向け続ける精神が必要です。これこそが、「自分の頭で考える」ということであり、おそらく東大(というか全ての大学)が学生に求めている能力です。おそらくですが、外山滋比古先生が『思考の整理学』の中で言及されている「飛行機人間」とはこのような人を指していると思います(本書では対義語として「グライダー人間」という語が登場します。とてつもない名著だと思うのでおすすめです)。

 

 東大入試は単純に多くを知っていればいいのではなく、限られたリソースから自分の頭で考える必要のある良問が多い、といったような評価を昔よく目にしていましたが、最近その意味が分かるようになった気がします。たとえば英単語の暗記というのは英単語(点)とその和訳(点)の間の決まり切った線を点ごと内部化していく作業で、難しい英単語が並ぶ問題が多い入試問題があったとしたらそれは思考力に重きを置いている試験ではないということになります。対して東大入試の英語は、あまり英単語自体のレベルは高くなく、思考力を試される試験とよく言われていました。事実、難解な英単語の意味を文の流れから推測して回答せよという定番の問題がありました。知っている線がなければお終いなのではなく、自分で新しい線を引いてみろというメッセージの表れと言えるでしょう。また、受験生時代から筆者が感動していたのが世界史の大論述問題です。世界史が好きで、ややマニアックな点まで多くカバーしていた筆者にとっては、どうやって線をつないでいこうかとワクワクしながら解いていました(時間配分のある中、手に汗握るというか、手汗で解答用紙が湿りがちでもありました)。あの問題はまさに、与えられた単語群(点)を適切につないでいく(線を引く)という形式でした。学校の定期試験に出てくるような普通の問題でも、問題という点に対して適切な線を引いて解答という点に至るという流れではありますが、その点と点を結ぶ線の引き方を、殆どの場合授業で教わっています。いわば、線の引き方そのものを暗記しておきそれを試験時に再現する、要するに線をコピー&ペーストすれば事足りることがほとんどです。しかし東大の世界史の論述においては線のコピペはできません。なぜか。それは、問題の切り口が新しく、その切り口の通りに習っている確率が低いからです。要するに、登場する点自体は知っているものの、組み合わせたことのない点を即席で組み合わせる必要があるのです。点を知っていることを前提とした思考力を問うていると表現して間違いありません。

 

 最後に、人間関係に言及して終わりましょう。私は、お互いに自分で線を引き合いそれを素敵とか面白いとか思えるような関係性が理想だと思っています。こちらが魅力的な非日常を用意し続けなければ満足できず、最近面白いことないなと他力本願でぼやいている女よりも、何の変哲もない晴れの日の空の青さや、お店に出てくるまずくもおいしくもない料理のお皿の柄とか、どうでもいい点をたくさん共有して、そこから二人だけの旅を楽しんでくれる女性、雨が降っていても、隠された小道を歩むことそのものを楽しんでくれる女性の方がよっぽど魅力的だと思いませんか(ユーモアとは悲しい点から出発して楽しい点に辿り着く道を見つける能力のことです)。だから私は知性の感じられない女性に惹かれないのかもしれません。

 

問:著者の好みの女性はどんな女性か。

答:丸顔

解説:「現代文の問いの答え→本文を読めば分かる」という、広く流布した線を疑ってください。ちなみに、丸顔かつ知性のない女性と、丸顔ではないけれど知性のある女性の対比は、筆者にとって永遠のテーマの一つです。

 

↓ 本日の曲です。切なくて爽やかで大好きです。

https://www.youtube.com/watch?v=i9QVwoMzs_I