HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

language~たぶん当たり前すぎること

 どうして3月末にバイトすることになってんすかね。社会人まで秒読みの人間がどうして他人の勉強見なあかんねん、自分の事で手一杯だっつの。あと、千葉県に住むことになりました。は?聞いてないんですけど。まあいいけど。あと、tunefab spotify music converter貴様は仕事をしろ。金払って落としてんだぞ。当たり前のことを当たり前にできないアプリは、それができない人間の何十倍も質が悪いぞ。なぜかというと機器というのは人間と違って優劣を純粋にスペックでしか測れないから。おい、聞いてんのか。

 

 冒頭から不満を爆発させてしまい申し訳ありませんでした。おかげさまでスッキリしました。本当は、怒りを感じた対象には普段からリアルタイムで正面切って怒鳴りたいところだけど、まあそれやってると社会的に生きていけなくなる。だからどうしてもという時は「気づかれるか気づかれないか」の瀬戸際を責める感じでねちっこく口撃するのが筆者の得意技で、あろうことかバイト先の教え子に対してよく使っています。いやでも、ほんとひどくて。表に出てる不規則動詞の活用全て覚えて来いって厳命して来週までに覚えますって約束させてんのにたぶんもう2ヶ月くらい覚えてないのよ。今年中3になる奴が。毎度テスト作ってんだからその労力に見合う成果を出せや。自分、親、俺、塾長みんなにとってのプラスになるというのに、なぜやらない?高校行きたいって前言ってたよな?あ?

 

 愚痴パートは第一段落で終了する予定だったのに。はい。今日の本題は、言語です。

 

 言語ねぇ。ここだけの話、筆者は大学で第二外国語の勉強に精を出す人の思考回路が全く理解できませんでした。辛く険しい受験人生を終えた自分としては、これ以上実学でない学問を必要以上に勉強したくないと思っていたので(言語学習を実学として捉えてしっかり励んでいる人たちは本当に凄いと思っていました。将来X国で○○をしたいからX語を勉強する、というようにヴィジョンが明確だからです)。一応言っておくと別に見下していたとかでは全くなくて自分がイタリア語を試験で必要な分以上に勉強したいと思ったことが一度もなく全然その欲求が理解できなかったという話です。とはいえ、本気で勉強している人はともかく、「試験以上本気未満」で二外を自主的に勉強したってどうせ大した実力はつかんだろ、とどこか冷ややかな目線で見ていたのは覚えています。・・・煮え切らない書き方をしてしまいましたが、要するに「ファッション言語習得野郎」に、どこか嫌悪感を覚えてしまっていたのです。それは、「第二外国語」という、「科類」と並んで貴重な「共通言語」を好むあるいは勉強する(姿勢を見せる)ことで「自分はクラスの他の人間と強い結びつきがあり、仲良しである」と周囲に印象付ける、そんな魂胆が透けて見えるような気がしたからというのが大きな理由かもしれない。もう一つの理由としては、別の回で話す予定の「措定」という問題と関係があるのだけど今回は割愛。

 

 でも今では言語って非常に大事だなあと良く思うのです。本当に当たり前のことだけど、やっぱり言語というものにある程度習熟していないと、異なる言語を話す人と交流することが出来ない。そして、言語だけが言語ではないんだということにも気が付きました。言語は、言語の一種なんです。

 

 少し詳しく説明します。言語は、「共通言語」の一種、と考えると分かりやすいかもしれません。よく、「数学は世界の共通言語だ」って聞きますよね。「数学」の部分に、「音楽」とか「サッカー」とかもよく代入されます。そういった意味での共通言語だと思ってください。英語、フランス語、ドイツ語などいわゆる(狭義の)言語というのは、より広義の言語の一種に過ぎません。狭義の言語に限らず、あらゆる知識・経験・感性が広義の言語の一要素となり得ます。

 

 ここで広義の言語とは、「コミュニケーションの触媒」というような意味で使っています。他人、特に、知り合ってそれほど長くはなく、まだまだよくわからないことの多い相手とのコミュニケーションを想定すると、初期状態でどれほど相手との共通言語を持っているかが、短期的に見るとかなり重要なファクターになることが多いと思います。長期的に見れば、その人と共に行う活動が増えれば増えるほど自然とそれが共通言語になるので、初期状態での共通言語の重要性は小さくなると思いますが。でもやっぱり多く持っていて損はない。

 

 筆者は手持ちの広義の言語があまりにも少ないなということに数カ月前に気づきました。コンプレックスです。これは、今後の人生においてマイナスでしかない。だから、(優先順位はつけるにせよ)あらゆる分野にアンテナを張り、この世の全ての事象を「言語」として吸収していこうというのが目下の目標です。ちなみに今は特に、「スポーツ」「植物」「地理」「ボードゲーム」が心の中の主要なターゲットです。

 

 今具体例を列挙してて気づいたんですが、「教養」って行き着く先はここなんじゃないでしょうか。「教養って何?」という質問にしっかり自分の言葉で答えてくれる東大生の割合ってどのくらいだろう。筆者自身教養という概念の意味が全然分からなかったので、この言葉は実体のない虚像だと思っていて、したがって冗談の流れだとしても「お前教養ないなw」などと言われると「教養って何ぞ?こいつは意味を分かって言っているのだろうか」と毎回思っていました。でも今は分かる気がします。この世の全てが教養です。正確には、自分がその気になれば身の回りの全てを教養と捉え、血肉化することが出来ると思います。教養とは、他者とのコミュニケーションの触媒になり得る知識、論理、経験、感性、記憶、技術など本当に全てです。どれを共通言語として使うことになるのか、それは勿論相手側が持っている広義の言語の種類に左右されるので分からないけど、少なくとも一つ一つの事象を内部化しておいて損はありません。広ければ広いほど、深ければ深いほど、多くの人と深いところで交流することが可能となるはずです。

 

 で、これって我々が高校までで散々教師に言われてきたことと酷似してません?「○○を勉強しなきゃいけない/○○が義務教育の科目になっている理由は?」「いつか役に立つかもしれないから」。まあ小中学校までの筆者は素直にこの答えに納得していましたが、高校では遂に「古文・漢文ってどう考えても役に立つビジョン見えないな(まあ得意だし楽しいからいいけど・・・)。」という真理にたどり着いてしまい、大学受験の道具ということ以上の価値を見出せずにいました。でも、そういうことじゃないんですよね。古文・漢文が読める者同士はそこでしかできない会話ができます。それだけの話です。英数国はその実学的有意義さがはっきりしていて「役に立つ」という点に異論は出ないと思いますが、そういった意味では役に立たない古文漢文も、お互いに分かる者同士であればコミュニケーションの触媒になり得る。要するに、「同じこと」を学んでいさえすればなんでも良いのです。超テキトーに例示するなら、たとえばバイクの歴史でも良いし、アコーディオンの弾き方でも良い。サルの育て方や痴漢冤罪への対処法でも構わない。全ての生徒が同じことをやれば自動的に共通言語を生成できるはずなので、本質的には何でもよい。ただ、その中で普遍的なものならなお良いから、それも考慮しているのかな。文科省の考え方は知らないので何とも言えないけど。「役に立つかどうか」という軸とは全く別の「多くの人が知っている可能性が高い(したがって共通言語として使い、多くの人と深く交流できる可能性が高い)かどうか」という軸があって、後者の見地から学問なり体験学習なりを捉える時に世間はそれを「教養」と呼ぶのでしょう。役に立つかどうかは置いといて、単純にコミュニケーションの幅が増える可能性が高まるから勉強した方がいいわよ~ということを世の先生がもっと強調すれば、うちの教え子みたいなやる気のない生徒も少しは減るんじゃないかと思う。というか、「教養」という単語についてそのような説明を受けていれば筆者は教養学部時代にもっと目を輝かせていろいろ勉強していたような気もする。つまりね、もう「教養」という言葉に何か神聖不可侵かつ不可知的で崇高な匂いを与えて学生を手玉に取るのは止めませんかと。そんなことをするから筆者の様に前期教養学部に全く価値を感じない人間が出てくる。教養というのは、持っていたらちょっと人付き合いが楽しくなるかもしれない素敵なスパイス。そんだけ。  と、逆にこうやってシンプルに定義した方が何百倍も魅力的に響くのは筆者の耳にだけでしょうか?

 

 (広義の)言語について書くつもりだったのに教養という言葉について脱線してしまいましたが、まあこの二つはほぼ同じことなのでいいや。社会人として様々な人との出会いを繰り返す未来を想像し、色々なこと(言語)を知り、学び、経験しようと思った筆者でした。

 

 今回の曲です。冒頭のドラムと、それに続いて流れ込んでくるギターノイズの洪水、その向こうから聞こえてくるような叫び声。このイントロがかなり好きです。今日のテーマとは何の関係もありません。

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