HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

理性礼賛

 ブログを書き始めてから、毎日が楽しくて仕方ありません。

 

 前回は自分にとっての関数というテーマをお話ししましたが、その中で筆者は昔、理性偏重主義だったということに触れました。ここでいう理性偏重主義とは、「知識と論理的思考力が抜群にありさえすれば、自分個人の幸せを最大にすることができるだけでなく、人類が抱える問題の殆どは解決することができると考える理性崇拝的な態度」という意味で使っています。

 もちろん、今ではこんなことは有り得ないということが一瞬で分かります。もしこの通りであれば、早い話、我々東大生は同年代で相対的に見てかなり幸せを感じているに違いありません。そのような傾向を皆さんは感じていますか?僕は感じません。寧ろ幸福度としては、早稲田や慶応の人々の方が全体的に見てなんとなく高いような気もします(そう感じるのは筆者だけでしょうか)。まあこの手の話は無理矢理一般化して語られることが多く実に不毛なのでこの辺で切り上げておきます。とにかく、理性偏重主義は明らかに誤りだ。

 当たり前のことですが、真面目に考えてみるとこの背景には(前回のお話とも被るのですが)、「知性が高いほど自分の効用関数をよく把握できている、という相関関係が特に無い」という事実があるとも言えましょう。もしこのような相関関係が認められるのであれば、高学歴ほど自分の精神構造=効用関数をよく理解しており、最適な値を投入して人生を豊かにできるはずだからです。

 そう、ここが問題なのです(胡散臭い自己啓発本の様な語り口になってきていますが気にしないでください)。

 

 東大生を始めとするいわゆる高学歴と呼ばれる人たちって、理性偏重主義とまではいかなくとも、傾向としては理性に重きを置いて生きてきた人が多いと思うんです。たぶんね。rationality is power的なね。でも、どんなに頭が良い人でも結局自分の効用関数を完全に把握するのって不可能だと思うんですよね。前回の記事の言い方を引き継げば、演繹的な手法で自分の効用関数の形を正確に特定することは人間には不可能なんですよ。

 頭でう~~んと考えることはとても大事なんだけど、ある程度までいったら実行に移して結果を見てみた方が良い。その繰り返しによって帰納的に自分の効用関数の「概形」を把握していくことが、幸せになる上で大切なんだって話は前回言った通りです。もちろん頭で考えることはとても大切で、出来ないより出来た方が良いに決まっているんだけど、理性偏重気味の人はともすればそのバランスが崩れて帰納的に生きている時間が少なくなり、結果として折角の頭の良さが自分の幸せに結びつかない・・・なんてことはないですかね?筆者は割とそっち側に陥りやすいという自覚があります。筆者だけ?あ、まるで筆者が頭良いみたいに読めてしまいますけど筆者は頭が良くありません。2015年前期入試の合格最低点プラス0.0334点差で滑り込み合格した底辺なので。

 ともかく、理性だけでは幸せになれない。分からないことが多い状況で取り敢えず色々なことに飛び込んでいくことも、ロングスパンで見た時に効用を高める(幸せになる)上で大変重要だと思うのです。個人的にはこのことをずっと銘記して生きていきたいと思っています。

 

 では、理性は行動に劣るのでしょうか?いいえ、そんなことは断じてありません。

 

 最近思うのですが、個人的に面白いな、個性的でいいな、と思う人の共通点を見つけました。彼らは大抵の場合、「思考」しています。いわゆる標準的な物の見方に囚われない。自分オリジナルのフレームワークに従って物を見る。そして、それを外界に発信する。これにより、筆者は彼らの各々に固有の脳内システムを垣間見ることができる。そしてそれは、紛うことなき彼らの「人格」でもある。

 筆者は「発言や行動が一から十まであまりにも典型的な人」を見ると、軽い恐怖を覚える。人格が見えないからだ。考えてみてほしい。いわゆる「普通」とか「多数派」とか言われる感覚をあらゆる項目について有していることなど有り得るだろうか?筆者はその可能性は限りなくゼロに近いと思う。0.9^10≒0.349だ。だから、そういった人たちは本来の自分の嗜好を外界に表明していないのだろうなと、基本的にはまずそのように考えてしまう。仮に筆者の予想が正しいとして、次の疑問は「彼らは敢えて普通を装うために嗜好・感性を偽造して表明している」のだろうか?というもの。筆者はなんとなく、大半はそういう事ではないだろうと思っている。おそらく彼らは「自分本来の嗜好や感性を自分自身であまり意識・把握していない」のだと思う。何を言っているのか分からない方もいるだろうが、筆者はこの感覚が分かる。中学生の頃にそういう時期があった。自分が本当にやりたいものが分からない。欲求が不明。何をすれば本質的に満たされるのかが良く分からないから満たされない。これはおそらく、外部からやれと言われたことだけを忠実に実行する、それこそが自分にとって一番大事なことで、自分個人のやりたいことは二の次だと考えていたからだろう。今では基本的に自分の事を第一に考えているのでそのような場面はかなり少なくなったが、未だに少しその時のことが尾を引いているように思う。

 人間とは不思議なもので、一定期間自分の欲望を押し殺して何かの仕事に従事していると、その仕事を完遂した後でももともとの自分の欲望を忘れてしまうということが珍しくない(筆者だけ?(笑))。だから、そうなりやすい人は日頃から「社会的な要請、文化的な標準、倫理的な規範を一切無視したところにある、自分自身のやりたいこと、嗜好・感性」はどのようなものか?と常に自分に問いかけ続けるのが地味に大切だと思う。おそらくそれを無意識的に実行し、かつ発信することが出来る人が、筆者にとっての面白い人である。なぜなら、その固有性が平々凡々に見えるわけがないからである。そして、この問いかけこそが「思考(≠嗜好)」なのではないかと思うのだ。つまり極論、筆者は思考している(ように見える)人にしか躍動する人格を感じ取れない。

 もちろん、本当に自分の固有の好みが大半の項目において「普通」に近い人も中にはいるだろう。これに関してはその人が本当にそれが好きなんだなということが伝わってくれば筆者的には全然問題ない(何様だ)。固有本来の嗜好・感性と普通の嗜好・感性の距離は本質的に全く問題ではなく、前者を自分で認知・把握しているか?ということこそが筆者にとっての問題であるということは、ここまで読んでくれた賢い読者の方々ならお分かりだろう。

 自分に自分を問う作業即ち思考こそが、自分を自分たらしめる行為なのだと思う。思考すなわち問いかけという作業は、先程述べたが外部からの制約をなるべくはぎ取った先のオリジンを垣間見る作業である(人間個人を社会と完全に切り離して考えることは不可能だというような話を遠い昔にちらっと読んだ気がする。この点については筆者も全くその通りだと思っているので、敢えて「なるべく」という表現を用いた)。その作業は少し怖い。高確率で「普通」から遠ざかっていくからだ。でも、そこで見えた「違い」こそが自分と他者(この際、思い切って大衆と言い切っても構わない)を区分する上で重要になるのではないか。高校時代、生物の初回の授業で生物を生物として定義するための3要素というものを習った覚えがあり、その一つに「自己と外界を区別する境界がある」というようなものがあった。人間がこれを含むすべての定義要件を満たした立派な生物であることに疑いを挟む余地はないが、筆者は、人間が精神的な次元において真に人間であるためにはこれに加えて、思考を通じて自己と他者の違いを浮き彫りにする(自己と外界を区別する境界を認識する)必要があると考えている。繰り返すが、オリジンを覗いた結果、多くの「同じ」も見つかるかもしれない。しかし、違いが一つも見つからないということは殆ど有り得ないだろうとも思う。どんなに小さなことでもいいから、違いが見つかるくらいまでは思考した方が良いかもしれない。

 かのデカルトは言った。我思う故に我あり。これは全てを疑った彼が辿り着いた唯一の絶対確実な真理であり、「存在」についての一言(と、一般的には解釈されているはず)だが、筆者はこの言葉を自分なりに少しいじって解釈してみたいと思う。即ち、思考するから自分なのだ。あのニュースを見て人々はこう言うが、自分は本当にそう思うのか?と、一度考えてみる。その結果分かった自分の立場は問題ではない。とにかく、「自分の頭」でなるべく考える。この思考作業の積み重ねこそが、エッジの効いた「鋭い個」を作り上げるのだ。裏を返せば、思考を省き続ければ自分は自分でなくなるだろう。筆者は死ぬまで自分として在り続けたいから、この脳がまともに機能する限りは考え続ける。デカルト的な意味で言えば人間はほぼ無条件で「存在する」ことは出来るだろうが、「紛れもない自分として存在する」ためには、よりしっかりと「我思う」しなければならないはずだ。

 「思考」は、動物の中でも人間のみに与えられた特権ではないだろうか。その折角の特権を行使しないということは、自分が個人として存在することを放棄しているということ以前に、人間に生まれたことの有難みを無視しているとは言えないか。日本中の成人に、声を大にして言いたい。

 

 冒頭、ブログを書くのが楽しくて仕方ないと書いた。今回も楽しくて仕方がなかった。それは、自分がゼロベースで考えたことをこれ以上ない快適な条件で(誰にも邪魔をされずに一気に完結させられるし、文章にすることで自分の考えもまとまる)体系化することができるからだ。これも思考の一種に他ならない。だから、最高に「生きている」感じがする。本当に良い趣味を見つけた。だからこれを読んでくれているあなたも今すぐブログを書いて、何を考えているのか筆者に教えてほしい。他人のブログを読むことが最高に楽しいのは、やはりその人の内面すなわち固有の嗜好感性を知ることができるからだ。

 

 前半では帰納的な生き方を称え、後半では筆者に色濃く残る理性崇拝的な態度を前面に打ち出してしまった。もちろん今回の記事で伝えたかったのは後者の話だ。やはり人間に与えられた理性は素晴らしい。考えすぎだと友人に時々言われるし自分でもそう思うのだが、どうか愛すべき欠点として暖かく受け入れてほしい。

 

 次回は、前回キーワードとして挙げた「関数に感動」というものと、「固有の嗜好感性」という今回のキーワードについてお話したいと思います。

 

 さて今回の曲も迷いましたが、このテーマを最もストレートに表現しているこの曲にしました。中学生の時何度歌ったか。最高です・・・。それでは、歌詞に集中しつつ聞いてください、

ONE OK ROCK 「じぶんROCK」 - YouTube