HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

コロナ、ただひたすらにだるい

 高知県に旅行してきました。四国カルストっていう最高のロケーションがあってせっかく行ったのに、冬の路面凍結に備えて交通規制があって行けませんでした。残念。

 

 本気で生きていきたいです。正直に言って、この一年間は「何気なくのほほんと街を歩いているカップルなり夫婦、老夫婦」とかを見て自分もこうやって精神的にのほほんと暮らしたいなあと思って、「本気で生きなくてもある程度幸せを享受できている自分」という像を自分に演じさせていたような気分がある。絶対に心の中では危機感があるしその中の半分くらいにはしっかり向き合っているんだけど、残り半分くらいには無意識のうちに(違和感を感じつつも)フタをして生きてきてしまっていた気がする。

 

 極論、社会人になって自分で生活費を稼げるようになったので、生存することだけなら問題なくやっていける、という段階にはたどり着いたことになる。それがかえって少し自分の目、いや心を曇らせていたんではないか。経済的な安泰は自分の求める者の中の一部、というか大前提に過ぎない。何のための安泰なのかというと、ある程度の冒険に安心して挑み続けられるようにするための安泰でしょうが。安泰のための安泰じゃないのに。

 

 そもそも安泰しているのは経済面だけであって(というか、固定費や将来への投資費用が馬鹿にならないのでそれも今のところ怪しいけれども)、まだ精神的に安泰する位置に自分は到達していないはずだった。つぶすべき不安はまだ残っているのに、安泰しているふりをしていた。無邪気に笑っている場合ではない。

 

 絶対に手に入れたいもの、どうしてもなりたい自己像は確かにある。それは、「実現できなくても生きていけるけど、実現できたらめちゃくちゃ最高だから目指したい」といったものではない。「実現できなければ本気で落ち込むから、悲壮にも本気でチャレンジせざるを得ない」というものだ。プラスの追求ではなくマイナスの回避だ。今まではそれに明確に期限が定められていたから認識しやすかった(東大現役合格、卒部までに黒帯取得)から自然と危機感もあった。でも社会人になった今は、業務の締切以外で外部から何か挑戦目標の期限が設定されることが少ない。だから危機感を感じにくい。しかし、危機感というのは自分に降りかかるマイナスの可能性を認識してそれを回避しようと思うことで生まれるものだから、これを感じていないということはマイナスの可能性に向き合っていないということになる。そしてマイナスの可能性に向き合うことは幸せを得るために不可欠なことであるから、結局危機感をごまかしている限り自分が本当の幸せを掴むことは無い。

 

 そして経験上、危機感をもって本気で生きている時に「生きている」実感があった。死を意識することで逆に生が浮き彫りになるといった話はよくあるけど、まさにその通りで、経済的に安泰している以上物理的に死ぬ危険性はほぼゼロになったとしても、達成できなければ精神的に死ぬほど嫌だなってことはまだまだ残されているわけであって、そういった、自分としての死(「自己死」とでも言える)を意識して危機感に向き合っていると考えれば説明がつく。

 

 自分が手に入れたいものを手に入れつくして、なりたい自分に完全になれる日が来るまで、この「自己死の回避のために本気で生きる」という茨の道から逸れることはできないということになる。自分が身を置く環境と自分自身の在り方について、「こうだったらいいな」ということに比べて、「これだけは絶対に嫌」ということが多いんだろうな。そしてその分、ほかのことについては極端に拘りが少ない。ゆえに、とてつもなく歪な人間像が出来上がっているのだろう。

 

 マイナス回避に奔走しなきゃいけない日々はきっとあと10年くらいは続くんだろう。でも、本気で生きることができるならまあいいか。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=of1LV5OSz1g

 

 帰りの電車とか寝る前に聞いてみてほしい曲です。副交感神経に効果抜群。