HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

措定

 tunefab spotify music converterの動作不良を改善する方法を見つけました。どうやら、ライセンスキーを入れ直すとまた正常に働き始めるみたいです。・・・って、IT系のライフハック記事じゃないのに何を書いているんだ。ちなみにこのソフトは、spotifyで落とした曲のDRMを解除してMP3ファイルに変換するアプリです。これにより、spotifyのアプリ以外の手段で曲を管理できるようになります。だから何、って感じですよね。

 

 テテン!(みんはや風)

 Q.肉類を油で炒めて焼いた西洋料理または調理法をフランス語で何と言う?

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    A.ソテー

 

 というのはさておき、今回は次の語がテーマです。

措定
そてい
positionthesis英語
Setzung (Setzen)PositionThesisTheseドイツ語
positionthseフランス語

定立(ていりつ)ともいう。(1)何かをそれとしてたてること、事態や対象の存在を想定したり肯定したりすることをさす。(2)狭義には、ある命題を証明なしに直接に主張する思考の働き、あるいはそのように主張された命題をいう。したがって措定は推論の開始をなす。(3)フィヒテでは自己や対象を生み出す自我の活動が、ヘーゲルでは弁証法の第一の契機(モメント)が措定とよばれるが、いずれも前述の二つの意味をあわせもっている。両者とも措定―反措定―総合という運動を考えたが、フィヒテが措定を絶対的であるとするのに対し、ヘーゲルは総合に強調点を置く。 

                           日本大百科全書より。

 

 ぶっちゃけ規定という単語で事足りるのですが、なんかかっこいいのでこの単語を(1)の意味で使っていこうと思います。

 

 筆者は意思決定をする際、無意識の内に「自動的に措定される」道を選んできたような気がする。最初は中学で運動部(陸上部)に入ったことだと思う。結構真剣に将棋部と悩んだけど、「何だかんだで運動部にしておいた方が絶対に良い」という直感に従って陸上部に入った(結果的にはこの選択が正解だったと確信している)。正確には、「10代のうちに肉体的苦痛(疲労)を強制的・継続的に体験しておかないと自分は柔になる」という直感だ。ただ今思えば陸上部を選んだのにはもう一つ、「一度入部すればその後5年間、ある程度行動面で措定される」というイメージ(このイメージは正しい)があったからというのもある気がする。

 次は東大受験。現状の成績的に教師には最難関校の受験を期待されている。そういうコースに乗るであろう存在としておそらく措定されている。目指しても特に不自然のない成績、寧ろ目指さない方が「なんで?」と思われるレベルではある成績。そして、東大受験は特に自分の意向に反する意思決定ではない。ならば乗っかろう。

 最後が大学で躰道部に入ったこと。動機は純粋な内容的興味だけではなくて、やはり入れば相当厳しく措定されるだろうなという面も非常に大きかった(当初の想定よりも措定されすぎたのが実情(笑))。

 これらは皆、「自分の意志とは関係なく何か茨の道を進めと言われ続ける環境に甘んじたい」という心理の現れだった。茨の道を進むので成長は担保されているし、その進む道は外生的に決まった状態で降ってくるので自分で考えて決める必要がない。自分の内的な欲望が入ってくる余地がない。だから、責任から逃げ続けられる。自分の行動を自分で決めるという責任から。中高と大学の部活については、筆者の意思決定は進むべき道を決める最初の時だけで、後は外から措定され続ければ良い。それで上手く行く。という算段だった。

 

 でも、もう勉強に関して措定されるのはまっぴらだと思い、だから第二外国語のイタリア語を必要以上に勉強する気が起きなかった。東大受験を決めた時の自分ならば、「自分はイタリア語のクラス→当然イタリア語を勉強しよう」と、既成の措定事項に従ってそのまま学習を続けていただろう。でもここに来てさすがに馬鹿らしくなった。自分の原初的な意思を探しもせずに東大受験という外からの措定に従い受験勉強に魂を売ってきたのだ。イタリア語への熱意がプラスでもマイナスでもなくはっきりとゼロであるならば、試験以上に勉強することはない(ちなみに、マイナスだったら逆に勉強していたかもしれない。この辺は別記事で書くかもしれません)。この時「しない」ということを主体的に選んだのが、筆者の自我の萌芽だったと言えるかもしれない。そう、受験勉強では完全に自我を殺していた。非常にきついが、それによって結果を残せば後から見た時に絶対に後悔しないし、(今ほど)勉強しなくていいという解放感がこの上ない幸せをもたらすだろうと考えていた。今考えてみると、前者の見立ては正解だったが、後者の見立てが正しかったのかは一概には判定できない。

 

 勉強しなくていいという自由。このような自由を消極的自由と言う。対して、自分の内なる欲求に基づきそれを実現できる自由を積極的自由と言う。この2語は筆者の造語ではなくれっきとした哲学/経済思想の分野のタームだ。詳しくは知らないがざっくり言って上記の認識で構わないと思う。筆者がこの2つの自由の概念に初めて出会ったのは高校の現代文で教師からの紹介があった時だ。最初は「自由という言葉を使ってなんかカッコつけてるだけじゃないのか?」と思ってしまったが、考えれば考えるほど、確かに自由はこのような2タイプに分けることが出来るということに妙に納得し、感動したのを覚えている。そしてこの2語には大学3年生の時、経済思想史という授業で再会した(この授業は面白いです。数字が一切出ないので他学部の人で興味があったら是非取ってみてください)。

 

 この消極的自由という概念を念頭に置くと、自分が何故「措定されたがるのか」が分かってくる。つまるところ自分は、「あえて自分を措定される環境に置く(=外から縛られる)」ことで、そこからの解放による(=消極的自由の獲得による)幸福を得ようという基本戦略を貫いていたのだ。また部活・受験双方について、毎回の練習(被措定の時間)が終了した後の解放感と、卒部/入試後の「丸ごと全て終えた」という解放感を両方想定していた。

 消極的自由は、その獲得の前に必ず「縛られる」という前段階が必要となる。そしてその縄はきつければきついほど、(時間が)長ければ長いほどその後の自由を強く実感できるというのが一般的だ。そして、その縄には2種類ある。解いた後に自分が成長できる縄と、ただ自分の資本を奪うだけで何ら建設的効果をもたらさない縄だ。前者を「投資」、後者を「無駄」という。筆者は運動部および受験勉強をきわめて信頼できる投資案件と捉え、成長プラス消極的自由による幸福を得ようと考えていたということになる(ここまで鮮明に言語化したのは今が初めてだが)。

 部活に入るにあたって「成長できそう」という動機は別段珍しくないと思う。ただ、「消極的自由を得たいから」という理由で入る人はかなり珍しいのではと思う。特に躰道部において、一年次から薄々感じていた自分と周りの部活に対する温度差の本質はおそらくそれだった。やりたい競技と言われても特にない。ただし、何かやれと言われたら、後で消極的自由を強く感じたいのでできる限り頑張る(=負荷をかける)。自分の場合は三年次の途中までは昇級審査というある種完璧な被措定ルートがあったので、これ以上ないくらい自分のニーズに合っていたということになる。長く険しく苦しかったからこそ諦めずにやっていたのだと思う。ただ、三年次から筆者は並行して積極的自由の幸せを追い求め始める。一度知ってしまった積極的自由の味は大変刺激的だったのだ。黒帯を取得してからは自分を措定するルートが終わってしまったので、全面的に積極的自由を追求していった。この自由の素晴らしさを教えてくれた部活には感謝しても仕切れない。

 ここで、一旦筆者自身の整理も兼ねて、筆者の脳内での用語の関係を整理した図を挿入する。

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仮説


 概ね上の様な構造が成り立つと考えている。消費と投資について詳しくはまた別の記事で扱う予定。

 今一度確認しておくと、積極的自由とは「してもいい自由、できる自由(内的志向に基づく主体的な追求)」で、消極的自由とは「もうしなくていい自由(外的抑圧からの解放)」だ。そして縄は、ある程度苦痛を与える行為だ。投資とはエネルギーを使ってレベルアップする行為なので、縄の一種である。

 上の図で注目してほしいのは、投資は積極的自由と消極的自由の双方をもたらし得るという点。でも片方しかもたらさないかもしれない。その辺りは個人の向き合い方による。一つ言えるのは、エネルギーを注ぐというある種の苦痛(負荷)を味わいながらも従事しているその時間に感じる自由が前者で、その時間が終了したためもうエネルギーを注がなくてもよいという、事後に感じる自由が後者だということ。ちなみに、筆者が部活で積極的自由を追い求め始めてからも、毎練習後に消極的自由はあった。ある程度の緊張感と集中力を維持する時間が終わるので当然だ(入部当初の目的である)。この意味で躰道部は両義的な場だった。

 

 さて唐突だが、22年生きてきた筆者の結論としては、投資由来の積極的自由の価値は消極的自由の価値に遥かに優るということである。ソースは筆者である(笑)。筆者は「(受験生時代と比べれば)全然勉強しなくて良い」という消極的自由を思い切り謳歌するために敢えてハードルの高い東大受験(縄1)を目指した。そして合格後は予定通り縄1を解いた、つまり第二外国語というステータスに措定され続けることを意図的に終了した(単位取得以上の更なる勉強には手を伸ばさないことにした)。そして、縄1からの解放と同時に部活という縄2で自分を縛ることにした。これも、消極的自由のためである。しかし意図せず途中からこの縄2によって積極的自由を知った。これが非常に良かった。

 知ったという書き方をしたが、実は筆者は投資由来の大きな積極的自由を既に一度経験していた。高2の時の学園祭の経験。自分にとってはとても大切な経験だった。大学に入ってからこれを忘れたわけではなかったが、受験であまりに疲弊した筆者はエネルギーを縄2以外に注入する気はなかったため積極的自由を求めようと思わなかった。積極的自由と言うのは心惹かれる何かに出会えるかどうかの運要素が強いが、消極的自由はとりあえず大変なことを頑張っていれば手に入る。運動部はそれを担保するので、確実に手に入る消極的自由を選んだという訳だ。安定志向が滲み出ている。

 余談だが、学園祭での積極的自由と躰道部でのそれにはいずれも、もともとすごく苦手で嫌だった事柄にチャレンジしてみたら面白かったという共通点がある。筆者は、ゼロから這い上がるのが好きなのかもしれない。

 話が逸れてしまった。投資由来の積極的自由が消極的自由に優るという話。結局筆者が求めた縄1からの解放は、それだけで幸せになるようなものではなかった。寧ろ虚無感と紙一重だ。本当に価値があるのは縄2による積極的自由の追求だった。また同じ縄2でも、黒帯まで辿り着き審査から解放されたという消極的自由より自分でやると決めた弐段審査という積極的自由の方が遥かに価値があった。そういうことが分かった。

 

 基本的に消極的自由目当てで生きてきた今までを後悔する気持ちは無い。寧ろ、学生の間にどちらも経験した上で上記の結論を出せたということで満足している。でも、これからは積極的自由を求めて生きていこうと思う。個の意思を圧殺して淡々と「こなす」経験はもう十分だから。措定される中でも何かに価値を見出し、積極的に追求していく。それはすぐには見つからないかもしれないが構わない。何に価値があるのかは十人十色なので、誰も教えてくれない。自分自身でそれをずっと探し続ける必要がある。これが大人という存在だと思う。大人になります。

 

 今回の曲です。free fall!のとこめっちゃ好きです。

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