HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

リーダー

 入社前の花見大会(?)に行くことにしました。なんか、もういいです。びくついててもしょうがないっていうか、筆者には部活という、帰るべき場所的なsomewhereがあるので。社会で出会う人々にもし嫌われたりしても少なくとも部活は自分を受け入れてくれてた(ように自分は思っている)んだから、恐れるだけ無駄・・・という感じの強気で生きていこうと思います。前置きでした。

 

 「リーダー」というポジションがある。ある集団があったらそこにはリーダー以外のポジションも必ずあるのだが、このリーダーという立ち位置だけ、幼いころからやたらと耳にする。厳密にはその定義にもよるのだろうが、まあ、集団の最終的な意思決定を担うこのポジションが非常に重要であることは間違いない。その意味で、「リーダーシップを育む」という校則や目標によくありそうな標語に対して異論は全くない。しかし、なぜこのリーダーという役職が重要なのか、なぜ例えば「お調子者」ではなくリーダーというポジションばかりが要求されているのか、という問いが活発になされてきたとは思えない。やたら耳にする「リーダーシップ」というワードは、筆者に無意識化に違和感を与え続けてきた。しかし最近、その理由と言い張るに相応しい、リーダーという立ち位置の特殊性に気づいた。当たり前のことなのかもしれないが、筆者にとってはそれなりに面白い気付きだったので紹介させてもらう。

 

 神の見えざる手とはかの有名なアダム・スミスの言である。合理的な個人が銘々自己利益の最大化を図ることで、結果として社会全体の余剰も効率的に高まる。これ以上ないほどの自由放任主義への擁護のようにも取れる。そして、経済学という文脈を離れても、これは筆者の感覚と非常によく馴染むものだった。よほど他人に迷惑をかける者でもいない限り、お互いが好き勝手やれるということこそが、集団としての最高の幸せをもたらすのだと。だが、現実的にそれは必ずしも正しくないということが、大学生活で分かった気がする。迷惑をかけない限りでの好き勝手、自由放任が個々の効用を最大化し、結果その和も最大化するというこのイメージは、実は、「①個々人が自らの効用を最大化する術を熟知しており、②集団内でそれを実行可能である」という隠れた前提に基づいている。実際、そんなことはない。

 

 ①について見る前に、②について考える。とても本の好きな男がいたとしよう。一般にこの男は人と話すよりも一人で読書に耽る方が好きである。しかし、最低限の社交性は持ち合わせている。この時、ある集団の一員として行動しているこの男が常に本を読み続けることはあるだろうか。答えは勿論NOだ。とても付き合いが長くお互いのことをよく分かっていたり、そうでなくとも時々というくらいの頻度ならそういうこともあるだろうが、まともな人間であれば一緒にいる間常に一人で本を読むという行動はできない。

 では、本を読むという行為を禁じられたこの男はどうするか。社交性に反しないという制約のもと可能な限り自分の効用を最大化するにはどうするのだろうか。ここで、この男がその方法を知らないということは十分に有り得る。これが①の問題だ。

 

 上の仮定は飽くまで一例だが、このような状況に陥った時、自由放任では個々人の効用の最大化は達成されない。そこで、ある程度の強権性を持ち合わせたリーダーの存在が必要になってくる。リーダーがある程度集団の行動方針を決定することで、個々人の取れる選択肢は絞られていく。この限られた選択肢の中からであれば、個々人は自分の効用を最大化する選択肢を選び取れる可能性が高くなる。そしてその最適な選択肢が一定以上の満足度を達成するものであれば、基本的にメンバーが不満を抱くことはないだろう。

 このようにリーダーとは、権力を善用し、各構成員が各々幸せを掴みとれるようにするという役割である。結果としてそれは集団としての最善を達成する。勿論、複数人の効用を全て一定以上に保つことができるという保証は無い。だからせめて、メンバーの利得についてパレート最適な状態を実現すること、これこそがリーダーの責務である。

 しかし、その試みが失敗することもあろう。その時リーダーは心無いメンバーから非難される。しかし、そのメンバーがリーダーと同じ全体思考に立った上で提言をしたというなら話は別だが、何もせずリーダーの言うことを聞いただけだったというなら、彼にそんなことを言う資格は無い。要するに、全体を幸福にするという責務(義務)は、後にそれを非難するという権利と表裏一体なのであり、この義務の放棄は権利の放棄を意味する。筆者はそう考えている。別に、責務を回避するのが悪いということではなく、飽くまで、どちらの道を取るかということである。

 

 筆者は大学生活では基本的に義務と権利を放棄する道を採ってきた。単純に、全体幸福を考慮するのが面倒だからだ。しかし、自分の行動を人任せにしたがためにそれが良くない結果をもたらした際に非常に苦い思いを味わったことが何度もある。文句は言えない。だからこそ苦々しい。最悪の気分になる。あの時少しでも自分が考えていれば、と後悔の念が沸いてくる。だから、これからはなるべく集団の役に立つよう初めの段階から主体的に関わっていこうと思う。仮に失敗して無責任に文句だけ言うような奴がいたとしても、そいつは権利と義務に関して何も理解していない馬鹿だと思おう。

 

 以上のようにリーダーは、暗黙のうちに責任を引き受け全体思考を要求されるという特殊かつ難しいポジションである。さらに、本来は自分自身も一構成員として他のメンバーと同列に扱い、その上で全体の視野を持たないといけないという問題もある(これはおそらく非常に難しい)。以上、リーダーシップを学ばせる際はその理由として上記の事を伝えるべきだと思った次第(筆者の一個人としての考えに過ぎないが)。

 

 今日の一曲はコチラ。ポジティブで良い曲です。

Alesso - Heroes (We Could Be) (Official Music Video) ft. Tove Lo - YouTube