HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

人間三層説

土曜練

現役部員 

コミプラも

OBの俺

家でまったり

 

過去最速で短歌を作ってしまいました・・・今年一年間頑張ってください!

 

 今日は掲題の通り、筆者が思う人間三層説なるものについて、自分自身で整理しようと思う。たぶんいつもよりはシンプルな話になるはず。

 

 この説はその名の通り、人間は3つの層から成ると考えるというものだ。筆者には心理学的な知見は殆どないので専門的な話は何一つ分からないが、このように(便宜的に)考えることが人付き合いをしていく上で役に立ちそうだと思ったので提唱することにした。

 

 さっそく3つの層について紹介しよう。外から順に「表層」「外層」「内層」と呼ぶことにする。表層とは、簡単に言うと外見である(来ている服なども含む)。他に、声質とか、香水の影響も含む匂いなども表層の一要素である。要するに五感で認識できる情報である。

 表層が人間の物理的な部分(外面)であるとすれば、外層・内層はともに人間の心理的な部分(内面)に相当する。外層とは内面のうち多くの人に抵抗なく公開できる部分で、内層は公開するにあたり一定の考慮を要する部分の事である。外層に比べてよりパーソナルな部分と言ってもいい。

 外層・内層について少し詳しく話をしよう。外層とは「〇〇大学△年生の××です。趣味は□□で、※※サークルに入っています」というような肩書きや、「(今食べているこの料理が)おいしい」「(今立っている高い場所が)こわい」といった単純な感覚の表明、「今度の飲み会に参加する」という意思の表明など、日常的にあるいは初対面同士の会話でよくなされるようなコミュニケーションから分かる相手の情報だ。一方内層とは「誰が好きで誰が嫌いなのか。また、それはなぜなのか」「今、本気で取り組んでいることは何なのか。それに対してどのような熱い思いを抱いているのか」「日々、どんなことを思い、感じ、考えて生きているのか」など、一歩踏み込んだ関係でないとなかなか伝えたくならないような部分だ。

 もちろん、この2つの層を明確に区切ることはできない。また、人によって同じ項目でも外層と内層のどちらに入るのかは異なる。外層と内層の違いはその人にとっていつでも誰にでも公開してよい自己なのか否かという点にあるのだ。したがって、外層と内層の厚みの相対比には当然個人差がある。そして、これらの絶対的な大きさにもまた個人差がある。外層が大きくなる例としては、たとえば資格や肩書をたくさん持っていたり、五感の感受性が強く食べ物や動物や音楽等々比較的物理的な要件によって好悪が左右されるものに対する拘りが強かったり、色々な経験を持っていて話すエピソードが豊富な人が挙げられる。筆者のイメージする外層についてなんとなく分かっていただけたかと思う。内層が大きい人というのは意志(≠意思)や信念があったり色々なことを考えていたり大切な何かや確固たる価値観を胸に秘めている人である。

 

 経験上、新しいコミュニティが形成され見知らぬ者同士が集まった時に最初にその集団の中心となるのは「その集団の他の人よりも外層が厚く、それを進んで表明する人」である。当然である。舌が馬鹿(幸せな舌と言っていただきたいものだが)ゆえ何を食べてもおいしく感じてしまいお店のメニューに対する感想が貧弱な筆者と、「おいしーい!」と言いながら頬に手を当てて幸せそうに、そしてその食材についての豆知識まで教えてくれながら同じメニューを食べる女性のどちらがいいかと言えば後者に決まっている。あるいは、海外旅行をしたことが一回しかなくそもそも飛行機も数えるほどしか乗ったことのない筆者と、東南アジア各国を巡る中で陥った嘘みたいに危険で衝撃的な経験がたくさんある人間、どちらと飲みたいかといったら普通は後者になるはずである。また、履歴書は資格や学歴の欄を通じて驚くほど簡単にスペック(個人的にはあまり好きな言葉ではない)の差を浮き彫りにする。

 

 まあある意味当たり前である。定義からして外層というのは自己のうち気軽に公開できる部分の事であるから、その部分が大きいほどコミュニケーションのとっかかりとなる抽斗が多いということになる。単純に話題の提供材料に事欠かないので、このような人がいる方が基本的に宴席(特に大人数)は盛り上がる。しかし、外層が厚いというだけでコミュニケーションが活性化するわけではない。当たり前だが、それを表明しなければ意味がない。すなわち「自分のネタを話す」という意思決定がなければ外層の厚さが活かされることはない。

 

 ではその意思決定にどのような要因が絡んでいるかというと、最も大きいのは「聞き手がそれに最低限の興味を示し反応してくれるか」「聞き手を退屈させないか」といったものだろう。これは殆どの人に共通すると思う。しかし、これをどの程度気にするかの程度にはやはり個人差がある。ここでは①発話高ハードルタイプ、②発話低ハードルタイプの2種に分けるとしよう。即ち①は自分が今からしようとしている話がある程度相手の関心を引くと確信できない限りその話はしないタイプで、②はそのようなことをそれほど考慮せずに取り敢えず話を始めてみるタイプだ(あなたはどちらのタイプだろうか)。

 

 したがって、外層が厚く、かつ②の人は、初対面の相手とある程度の仲の良さになるのが最も早いだろう。相手が無口なタイプであったとしても、取り敢えずこちらは喋り続けられるだろうから。よほどうるさかったりしない限りは喋りかけられて悪い気になる人はいないので、基本的にこのような人は親しみやすいはずだ。

 しかし、そもそも外層が厚い時点でだいぶ有利ではある。何故なら、外層が厚ければ厚いほど、その中に聞き手の興味を多少なりとも惹起させるものが多くなるはずだから。そのような自信のある話が豊富にあるのであれば、①のタイプだとしても問題なかろう。要するに、インパクトのある話をたくさん持っている奴は無条件に初対面のコミュニケーションに強いよということだ。相変わらず当たり前の結論・・・。

 

 ここで一旦自分語りタイムを発動させてほしい。筆者は前の記事で「OSの理解や解明」が好きだと言ったが、嫌いなことも考えてみた。おそらく筆者が最も嫌いなのは「誤解されること」だ。

 

 テレビ番組のトークセッションのような場で聞き手やファシリテーターが相手の話(特に、その人の内層についての話)に対して「なるほど~、〇〇ということですね」などと安直にまとめ、話し手はあまり納得していなそうな表情を見せるも、聞き手がそのまま次の話題に入ってしまったり、あるいは話し手がそのまま話を続けたりする場面に嫌というほど多く遭遇する。筆者はこれが不愉快でならない。話し手は必ずしも構造立てて誰にでも論点を分かりやすく話しているわけではないだろう。実際、テレビに出演するからといって、毎回そんなことをする義務はないと思う。したがって、話し手の頭の中でも話した内容について明瞭に整理できていない場合だって多々あるだろう。それを、初めて聞いた見ず知らずの人間がかように簡単に「〇〇」という一言でまとめられるものだろうか。そんなことを百発百中で出来る人間は本当にごく一握りの超絶に頭の回転が速くかつ相手のバックグラウンドを想像する力にも恵まれた超人でなければ難しいと思う。決められた尺の中で視聴者に分かりやすく伝えなければならないテレビという環境ゆえの制約なのかもしれないが、そんなに簡単に他人の内層をまとめるなと、そのような光景を目の当たりにする度に思う。少なくとも、もし筆者がその対応をされたらすごくもやもやすると思う。自分がたどたどしくも苦心して綴った言葉を、ありふれた言葉で何の苦労もなしに概括されてたまるか。そんなことをされたら確実に齟齬が生まれる。端からみたら微妙な違いかもしれないが本人的には無視できない違いが、受け手との間に形成される。何故か分からないが、筆者はこうして自分自身のことについて誤解されることがひどく嫌いだ。いや、他人同士のコミュニケーションなのだから、完璧に認識をシンクロさせるということは極めて難しいことは分かっている。だが、今後長く付き合っていく人たちや家族などとは、あるいは、認識をすり合わせる必要のある状況においては、極力自分を正しく理解させる(make myself understood)よう努めるべきだろう。中学生の時、筆者は自分を理解しようと手を差し伸べてくれそうな大人、あるいは理解できそうな大人を周りに見つけることはできなかった(両親も含めて。話にならなかった)。この体験が、他人を皮肉めいた目でみてしまう今の筆者を形作ったような気がする。少し脱線してしまったが、誤解されたくない筆者は、だから、誤解されるリスクを冒すくらいなら極力自分のことについて何も話さない方がマシだと、心の奥で思うようになってしまった。つまり、内層が大きくなった。

 

 もちろん筆者はなんでもかんでも自分の思うことに同意してほしいということではまったくない(そんな人がいたら社会で生きていけないだろう)。そうではなくて、自分を正しく理解した上で、「へぇ、あなたはこうなんだ」と思ってほしいだけなのである。直後に「俺/私には分からないけど」という感想が続いたって一向に構わないし、なんなら「大馬鹿者!屑!」と蔑まされたとしても全然良い(寧ろそんなことを言ってくる人がいたら痺れてしまう(笑))。大事なのは「俺は俺(私は私)。筆写は筆者」として、同じだろうが違っていようがまずは正しく自己と筆者を別ではあるものの同等な存在として認識してくれる(自己と外界の境界を正しく認識している、ということ。過去記事を参照してほしい)というこの一点なのだ(そしてその際に筆者の言っていることを雑に誤解されるのが筆者は嫌というわけだ(笑))。換言すれば、自他の価値観の違いを認識したうえで双方をリスペクトしてほしいということだ(多様性の尊重が叫ばれる現代ではよく言われることだと思う)。それが出来そうにない人に筆者はあまり魅力を感じないし、正直あまり一緒にいたくない。また、自分でも常々自分だけの尺度で人を決めつけないようにしようと心がけている。最低でも3カ月ほど様子を見るまで、基本的にその人の自分の中での位置づけを確定しないように気を付けている。

 

 外層がその名の通り外から自分を定義づけるという側面が強いのに対し、内層は内側から自分を説明するという側面が強い。だから、「その人本人」としてどちらが核心かと言ったらもちろん内層の方ということになる。だから、筆者は外層よりも内層を誤解されることの方が遥かに嫌だ。そして、内層は外層のように簡単に説明できるものではないので、伝えるのが難しい。だから中途半端に話してしまえば誤解されてしまう(それを20分以内に初対面の相手に伝えきれというのが就活の面接だ。これでは初めから、内層を正しく伝えることなどできるわけがない(と、感じる筆者のような人もいるだろう)。そして誰でも嘘をつくことが出来る。誰も悪くない。本当にクソだ)。故に人は、内層を簡単には他人に話したくないのだと思う。付き合いが浅いうちは外層の話の割合が多く、徐々に内層の話が出来るようになっていくというのは、この人は自分が内層を語ったとして理解してくれるのだろうかと見極めるためではないだろうか。また、サシ飲みが楽しい理由もおそらく内層を語り、聞き合えるからである。大人数に向けて話すと、どうしても理解の程度に差が生まれよう*1。それをその場で訂正していくのはしんどいし楽しくない。だから、1:1でじっくり話せるほうが個人的には好きだ。そのような観点から考えると、多人数コミュニケーションと1:1(あるいは少数)コミュニケーションでは求められる自己が異なるのかもしれない。前者では人数を考慮した最大公約数的に刺さる外層の話、後者では普段できない内層の話。

 

 筆者は以前ある友人に「筆者の良さは長く付き合ってみないと分からない」と言われ、妙に納得してしまった。確かに、自分を気に入ってくれている(と筆者が感じているだけかも知れないが)人というのは、皆ある程度長い間自分を見てくれた人のような気がしたのだ。なるほど、筆者が本当に良い友を持ちたいなら、焦っても何も意味がないという事か。自分は外層で勝負する人間ではなくて、自分の内層を気に入ってくれる人が少しでもいてくれたらそれでいいじゃないか・・・と、今書いててものすごくすっきりしてしまった。幸いにも筆者は、その人が自分の内層を理解しようとしてくれそうか否かは直感で分かる。少し元気が出てきた。

 

 しかし、外層の薄い筆者は外層を分厚くしたい。やはり初対面で多くの人と打ち解けることができるというのは非常に優れたスキルだ。これについてはしコンプレックスでもあるのでこれから本気で頑張ろうと思う。

 

 最後に。筆者は内層が面白い人が好きだ。もっと色々な人の内層を覗きたい。だから皆さん毎日ブログを書いてくださいお願いします(いつもの)。

 

 今回はふと思い出したこの曲。当時の進研ゼミのcmのテーマ曲だったので覚えている人もいるかもしれません。いやあしっかし、どうやったらこんな素晴らしい曲が書けるんですかね?ちなみにサビで出てくる「理解」という語は本文中で意図した方ではない方の意味で聞いてください。「理解」できないと認めることこそがある意味で「理解」なのです。ではどうぞ、

ガリレオガリレイ 僕から君へ - Bing video

 

*1:文中で何度も「理解」という語を使ったが、ここで言う理解とは「自分と他人は違って当たり前」ということの理解であって、「他人の価値観が自分のと近いため手に取るように分かる」という意味での理解ではない。両者は決定的に違う