HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

劣等感

 先日友達と3人で1泊のスノボ旅行に行き、夕方からは部屋でのんびりしていたのだが、そこでその内の一人に筆者が「ポットでお茶を点てる」行為が好きであるということを見抜かれた。また、別の日に知己と飲みに行った時、筆者が話をしながら無意識の内にプラスチックで表面を補強された四角いメニュー表の隣接する2つの頂点を机の隣接する2辺にあてがい、メニュー表の辺を斜辺とする直角三角形を維持したまま縦横の辺の長さの比を変えていたことを指摘(?)された。ほぼ無意識の内にしている癖や行動を見抜き、それを伝えられるあの瞬間は、何故か胸がすく。理解されているという安心感なのだろうか。

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このようにメニュー表を動かしていた。なぜこんなクソどうでもよい事のために図を作ったのか、謎は深まるばかり。

 

 今日は(今日も?)自己満足兼整理用の内省的なお話を。劣等感についてである。

 劣等感。これこそが(少なくとも今までの)筆者のアイデンティティであり、原動力であったように思う。切っても切れない、腐れ縁。

 どこで染みついたのかは大体見当がついている。一つは幼少期、3,4才頃の近所の公園にて積み重なった体験だろう。この時期の幼児の遊びと言えばただひたすら単純に体を動かすという類のものだったと思うが、同じ年齢の幼馴染の女の子ができて自分にできないということが多かった、様な気がする。さすがに記憶が定かではないが。ただ、ここで劣等感、悔しさを知ったのは間違いない。他には、PS1のテニスのゲームで父親に負け続け、その度に大泣きしていたこと。小学校に上がり、とある女子にひたすら「不器用」と言われたこと(自覚があった)、など。そして、自分を馬鹿にし、頼んでもいないのに劣等感を植え付けてくる同級生には少なくとも勉強でだけは絶対に負けたくないという思いが根底にあった。それが今の自分を形作っている基盤になったと思う。ただし、原動力が劣等感だから、「現状の自己の否定」が常につきまとった。このままじゃいけない、だから頑張る。ゼロという現状からプラスを目指すのではなく、マイナスという現状からゼロを目指す人生だった。それは子供にとって楽なスタンスではなかった。

 以前何かの記事でも書いた気がするが、とにかく中学生の間は自己肯定感が低かった。それは自分が「何者」にもなれていない屑だという自覚があったからだ。自分が「何者」かになれるまで、根源的な劣等感に端を発する「今この瞬間、現状の」自己への不満が終わることは無いと、感じていた。そして高校生の時に「何者」を「東大生」に設定した。文系であれば、東大以外の大学生になら基本的に時間の経過により自動的に「なる」ことができそうだと思っていたから。それは、自分で選び、勝ち得た「何者」とは言えない。だから、東大受験は本当に、自分が何者かになれるかどうか、現状の自分を否定し続ける心におさらばして自分を認められるようになれるかどうか、ゼロという地平に辿り着けるかどうかという、プレッシャーなんて言葉ではまだ不十分というくらいの大きなイベントだった。だからネットで自分の受験番号を見た時は、とにかくホッとした。

 さて、東大に入学し、これで劣等感はきれいさっぱり払拭されてのんびりしたキャンパスライフを送れるようになる・・・はずだったが、18年間で染みついた劣等感はカーペットにこぼしたシミの如く根強く筆者の心に張り付いており、簡単に拭えるものではなかった。何を思ったか、「運動部」という任意参加の団体、それも、所属していなかったとしても社会的に何の非難も浴びないような団体への所属を決めてしまった。唯一手に入れた「東大生」という肩書きは、受験勉強が得意ということ以外の情報を一切示さない。自分にも、他人にも。・・・それではあまりに寂しいだろう。勉強ができるという自信ではなく、勉強しかできないという劣等感が頭を擡げた。こうして、別の「何者」かになるべく、筆者は入部した。暗殺教室という漫画の中で主人公の殺せんせーが「二刀を持つ者は強い」という旨の話を生徒にする場面があるが、この場面がとても好きだ。まさに筆者の入部の動機だったからだ(正確には、「一刀しか持っていない自分が嫌」という意識だったが)。また、前回の記事で書いたことだが、組合せこそが凡人の武器になるという感覚に通じるものもある。

 今では任意取得の弐段を取って卒部した。つまり(自分の中では)部活をやり切り、「OB」という分かりやすい「何者」になることもできた。また、もうすぐ「東大生」ではなく「東大卒」という「何者」にグレードアップする。まあ、世間で言う所の文武両道(・・・くらいには言えると自分では思う)の何者かにはなれたと言えるだろう。これで流石に、22年間の劣等感は消えたか・・・?答えは、残念ながらノーだった。しかし、あと2,3年の内にその大部分が消滅するだろうという予感がしている。というのも、今現在自分が抱く劣等感の正体が「地に足つけたまともな大人」になりたいというものだと分かったからだ。これには自分的に色々な要件があるが、その一つに「自分一人で生活を送れる」というのがある。これだけでも色々な側面があるのだが、一番大きいのは経済的側面だ。これはもう、社会人にならないと絶対に解消できない。他にも様々な要件があるが、おそらく、あと2,3年以内におおかた解消できると踏んでいる。

 気になるのは、根底にある劣等感の大部分が拭えたその時に何が見えるのか、ということ。劣等感は駆逐するべき対象であると同時に行動の原動力でもあった。この原動力が無くなった時に自分が牙の抜けた家畜となっているか目を輝かせた探求者となっているか、もしくは満ち足りた老境に安息しているかはまだ分からない。その時に備えて、劣等感に代わる燃料を探していく必要がありそうだ。

 

 今回の曲です。この手のサビのある曲はシンプルに最高ですね。

白い花 ZONE フルPV視聴動画| nanapv