HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

幸せになりたいですよね

 ちょっと2月の予定を何にも考えてなさ過ぎてこのままだと暇死します。外国行ってみたいけど母親と一回韓国に行ったきりなので大変心細い。何にも分からないので助けてください。というかまずは飛行機を取れと。はい。

 

 今回は予告通り、幸せの探求というテーマでお話しします。まず定番の質問をさせてください。「あなたはなぜ生きているんですか?」もしくは、「あなたが生きる意味って何ですか?」でも良いです。

 

 

 という問いに対して時々なされる回答に「理由なんてなくても生きてたっていいじゃないか」とか「生きる意味なんてなくていいんだよ」という類のものがあって、まあなんかこう、そう答えたくなるのは分からなくはないんですが(数学の問題で「解なし」って書くのはなんかかっこいいですよね)、本当にそうでしょうか(ちなみに別パターンとしては「その答えを探すために生きている」というものがありますが、こんなことを言っている奴は99%嘘をついています。だってそんなの哲学者以外ほぼ有り得ないじゃないですか。というか、それってつまり「それが見つかったら死んでもいい」ということですか?とすると構造的に自家撞着しますよね)?筆者はこの問いの答えを中学生の時結構真剣に考えていました。最初は、「地球上のあらゆる戦争を撲滅し、環境問題を全て解決し、貧困を根絶し、、、」とかなのかなと思っていましたが、すぐに「では仮にこの世から「問題」がなくなったら自分はどうなるのか?自分は何かを解決するために生きるのであって、その問題を解決してしまったら存在価値がなくなるのか・・・?」という壁にぶち当たって悩みました。簡単に言えば生きる目的が分からなくなりました。ただこの世に生を受けてしまったから習慣として呼吸を継続しているだけであって、自分はただCO2を吐き出し続けている有害物質が意識を持った存在に過ぎないのではないか・・・と、今考えると自己肯定感もくそもない究極に陰鬱な感じになっていました(笑)。そして割と真面目に上記の理由で自分は価値の無い存在だと思い込んでしまったので、これは本当に自殺した方が地球のためなんじゃないかとすら考えました。でもやっぱり死ぬのは物理的にとても苦しそうで勇気が出なかったし、生物として自死を選択するというのは倫理的にあまりにもまずそうだという直感があったので、本格的に自殺の方法を考える段階にまでは至りませんでした。あとは、なんで他の人間がのうのうと生き続けてるのに俺が死ななあかんねん、もっと死んだほうがいい連中はこの学校を見渡すだけでもたくさん見つかるはずだろという、今思うと本当に最悪の不公平感を抱いていたというのもあります(笑)。

 

 という感じで中学生時代の筆者の脳内は青春とは程遠く、人生の根本についてなかなか答えの出ない迷宮を彷徨っていました。結局考え込みすぎて分からなくなり、これ以上考えても精神を害するだけだと判断して中3だか高1だかにすっぱりと考えることを止めたら結構楽になりました。

 

 そしていつのことだったかなぜか忘れてしまったのですが、筆者は遂に冒頭の問いに対する答えとして100%納得できるものを見つけたのです。はい、筆者が生きる意味とは「自分が幸せになるため」でして、これ以外にありません。これが全てです。そして、筆者以外の全人類にとってもこれが正解です。これ以外に生きる意味は一切存在し得ません。

 

 前回、筆者は自分に内在する幸せシステムを解明したいとどこかで思ってしまうと書きましたが、たぶんそう思うようになったのは上記の命題(生きる目的は幸せになることである)が真であると確信したからだと思います。まそれは置いといて、この命題について「そんなことはない。私は、自分が幸せになるためだけに生きてるんじゃない。自分が大変な思いをしてでもあの人・あの組織を幸せにしたいから生きているんだ」という反論が容~~~易に想像できます。まあ、同じことを考えた事のある人ならすぐに分かると思うんですけど、他人のために生きたいというのは、その他人が幸せになること、もしくはその他人を「自分の手によって」幸せにすることが自分の望み=幸せだという図式があるからですよね。

 別の人はあるいは、「自殺者という反例が数えきれないほどいる」と反論するかも知れません。それは単純に、生きる苦しみから逃れたいからですよね。死ぬ方が相対的にましだと予想しているからです。その人だって、たとえば「自殺した者は死後、現世の苦しみを遥かに上回る苦しみを永劫に味わう」という教えを心から信じていれば自殺しないはずです。要は、相対的に考えた時に死ぬことの方が幸せレベルでいうと上だと思ったから死を選んだだけです。

 ということで、どんなに頑張って例外を探そうとしても「不幸」を目指して生きている人は見つかりません。一見そのように見える人がいたとしても、その人の深層心理をよく理解すれば、更なる不幸から逃れているということで必ず説明がつくはずです。

 つまり人間が生きる意味というのは幸福を探求、賞味する以外に有り得ないんです。これはもうそういう定義と思っても大丈夫だと思います。構造上そうなっているんです。実際に幸福になれるかどうかは別問題として。これは、人間の行動の根本原理を統一的に説明する非常に魅力的な命題です。筆者にとっては、誰の助けも借りずに見つけた宝物のような結論なのでした。

 でまあ。当然「当たり前だ。そんなの分かってる。その幸せってのが分からねえから大変なんだよ。あと、幸せが分かったとしてどうやったらそこに辿り着けるのかも分からねえんだよ」と誰もがツッこむと思います。もう何度も書いてきた通り、それは各個人が演繹的・帰納的に見つけていかなければなりません。すなわち、これ以上詳しいレベルの普遍的な公式はもうありません。というか、それを頑張って叶えることこそが人生なのでそれは本当に自分で頑張るしかないですね・・・。

 

 と、ここで終わってしまうと今回の記事で本当に何にも言っていないことになってしまうので(笑)、一つ、これいいかもなと最近気づいた考え方を発表させてください。筆者は幸せをワンランク具体的にかつ簡潔に考えるにあたり、「大切な物に囲まれて生きていく」というスローガンを立てました。

 

 話は大学二年生の頃に遡ります。2Sセメスターで今ほどではないですがかなりの暇を謳歌していた筆者は漫画喫茶に入り浸っておりました。ジョジョを1巻から読み進めていたのですが(筆者の例のコレクト主義により、途中の部から読みだすことなどできませんでした。6部まで読み終えて止まっているのが現状ですが、今のところ好きなのは2部と3部です)、よく行く下北沢のポパイという漫画喫茶の階段に、様々な漫画の名セリフシーンの一枚画像が貼ってありました。その中の一枚に、ルフィが「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!」と言っているものがありました。筆者はワンピースを読んだことが無いので前後の文脈は全く知りませんでしたが、それを見るたびに素直に良い言葉だなと思いながら階段を下りて3時間1000円くらいの料金を払っていたのを覚えています。以来、幸せを考える上で「自分の好きなもの」って(当たり前だけど)大事だなと強く思うようになりました。筆者はたぶん、人よりも嫌いなものが50倍くらい多いです。こだわりが強すぎて色々見えてしまうんでしょうか。分かりませんが、嫌いな物・人の話をさせたら半日くらいマシンガントーク出来る自信があります。そんな自分と正反対なイメージがあるのが渋谷や原宿にたくさんいそうなオサレJDたち。本当に偏見なのですが、彼女たちは自分の「好き」をとことん追い求めて生き、楽しんでいるように思えました。もしかするとその分、嫌いな事(たとえば、勉強とか?あ、ただの偏見です)から逃げてしまいやすいという傾向があるという可能性は捨てられません。でもまあ、なんとなく自分より幸せに思える。好きな物がたくさんある人はもうそれだけで、そうでない人より幸せであることは間違いない。

 

 そしてその好きなものっていうのは当然、物である必要はないわけです。物・事・人(・動植物)全てオーケーです。とにかく幸せになりたかったら、これらの「好きな存在」を増やして行くことが大事だと思います。ただし、人によって当然この「好きな存在」ポートフォリオは異なってくるわけなので、必ずしも友達が多い方が幸せだとかいうわけではないと思います(それらを厳密に議論しようとすると今度は必ず「幸福の質・量」の話をしなければならなくなりますが今は割愛します)。

 

 ではどうやって好きな存在を増やすかというと、当たり前ですがまずは「様々な人・物事」に触れていく必要があります。好きの反対は無関心という諺がありますが、裏を返せば無関心(≒知らない)の状態を無理矢理ひっくり返せば少しは好きになるかもしれないということです。ただ、これは何も意識しないで生きていると難しい。当たり前ですが、人が興味・関心のない対象に近づくことは止むを得ない事情がない限り普通はないからです。なので、そこを拡充できることが望ましい。たいして興味関心がなくても「ダメもとで行ってみっか~」と思ってフットワークを軽くしていくと、好きな存在が増える確率は畢竟上がります。でも、それが現実的に難しい事は筆者も読者の方も重々承知だと思います。まず、そんなに自由に使える時間というのがない。「目先のしなければならないこと」に終われているのが現代人の常なので・・・。

 

 さらに、とにかく色々なものに接触していくことにはそれ自身リスクもあります。結局好きになれなかったとか、対象が人である場合は特に、とても不快になったとか。筆者はこの前「根暗だよね」と言われましたが本当にその通りだと思います。基本的に見知らぬ人と会う時は効用がマイナス計上になると考えています。最初から期待値を下げていた方が、後で傷つかなくて済むので。人に対してはとても慎重です。ただ、割と多くの人に当てはまると思うのは、物・事に関しては人と接触する時ほどのリスクはないんじゃないでしょうか。失うとすれば金銭・時間(・場合によっては疲労や怪我など)程度なので。だから、少なくとも物・事については、どんどん新しいものに触れていくというのがいいんじゃないかと思います(ただしこれにも現実的にそう簡単に踏み切れない要因があることは分かっています。難しいね)。

 

 好きな存在を増やす第一歩としてとにかく接触するのが吉ということを話しました。では次に、接触したものを好きになるにはどうすればよいのでしょうか。これが今回筆者が考える肝なのですが、一つは「それを能動的に大事にすること」なのかなと思います。対象が物でも事でも人でも、手間暇・金・想像力を惜しまずにまずは誠実に自分から尽くす。そうすると自然と(無意識的であれ)「自分にとって大切な存在」になっているはず。これはもう殆ど「好きな存在」と言い換えてもいいと思う。そしてこれは特に、対象が人の時に大きな力を発揮するのでは?というのが、筆者が辿り着いた大きな仮説。人に対してちゃんと向き合うってことは非常にしんどいことです。でも、きっかけが外部からの圧力であったとしても、誰かを本気で支えているうちに、もう他人ごとではなくなる。これこそが愛着という概念なのではないでしょうか。愛着を感じる相手はすなわち、表現の機微を気にせず一緒くたにして言ってしまえば好きな存在ということになる。やや暴論ですが、尽くせば好きになるのです。

 

 しかし、好きになれるかはある程度運のところもあります。

 尽くした結果、特にそのことに対して何らかの形でリターンが来ると、もう病みつきになる。対象が人の場合に効果が大きいと思うのはそれゆえです。とにかくまず自分から大事にすることが、広義の意味での「好きな人」を増やすことに繋がります。そしてそれは自分の幸せバロメータの上昇を意味します。

 でも誰しもが何らかのリターンを与えてくれるわけではありません。その時は残念ながら大して自分の幸せバロメータが上がることは無いでしょう。でも、これはもう仕方ない。尽くす前に、誰からリターンがありそうなのかを知る手段を現状筆者は持ちません。非常に言葉は悪いですが、将来収益が見込める投資案件を確実に特定することは不可能です(投資・消費について思うことはまた別の記事で書く予定です)。好きになれるかが運というのはそういう意味で書きました。

 そしてある意味これと好対照なのが、物や事に尽くした時。盆栽を大切に育てた結果立派な形になったら嬉しいですよねきっと。陶芸なんかもそうでしょう、また、何かスポーツで努力をして結果が出た時の喜びは何にも替え難い。これらはいずれも物事に尽くしたパターンですが、人に尽くす場合と異なり、正しい方向に進み続ければ一応結果が出ます(相対順位の話になってくると話は別ですが)。つまり人に尽くす場合と異なり運要素がありません。

 

 長々と書いてきましたが何が言いたいかというと要するに、周りの物、事、人を意図的に大事にしてみることが長い目で見た時に幸せにつながるんじゃないかということです。「大切なものに囲まれる」というと受動的なスタンスに聞こえるかもしれませんが、それが意味するところは「まず自分が尽くすことで自分にとって大切なものをたくさん作る」という極めて能動的なものです。大切だと思えるところまで尽くすことは簡単ではないので。

 

 相変わらずクソ長文なのに結論は至ってシンプルで面白みのないものになってしまい、申し訳ありません。なんとなく世界の色んな宗教で言われていることのような気がしてきました・・・。

 

 今回の曲は、最後の方で今回のテーマをばっちり歌詞でぶつけてくれているこの曲です、4:00からだけでもよいのでどうぞ、

UVERworld "LIMITLESS" live at SAITAMA SUPER ARENA 2012 - YouTube