HappinessmitH

考えた事や感じたことは言葉にして残しとかないと忘れちゃうんですよね~

措定

 tunefab spotify music converterの動作不良を改善する方法を見つけました。どうやら、ライセンスキーを入れ直すとまた正常に働き始めるみたいです。・・・って、IT系のライフハック記事じゃないのに何を書いているんだ。ちなみにこのソフトは、spotifyで落とした曲のDRMを解除してMP3ファイルに変換するアプリです。これにより、spotifyのアプリ以外の手段で曲を管理できるようになります。だから何、って感じですよね。

 

 テテン!(みんはや風)

 Q.肉類を油で炒めて焼いた西洋料理または調理法をフランス語で何と言う?

 ・

 ・

 ・

    A.ソテー

 

 というのはさておき、今回は次の語がテーマです。

措定
そてい
positionthesis英語
Setzung (Setzen)PositionThesisTheseドイツ語
positionthseフランス語

定立(ていりつ)ともいう。(1)何かをそれとしてたてること、事態や対象の存在を想定したり肯定したりすることをさす。(2)狭義には、ある命題を証明なしに直接に主張する思考の働き、あるいはそのように主張された命題をいう。したがって措定は推論の開始をなす。(3)フィヒテでは自己や対象を生み出す自我の活動が、ヘーゲルでは弁証法の第一の契機(モメント)が措定とよばれるが、いずれも前述の二つの意味をあわせもっている。両者とも措定―反措定―総合という運動を考えたが、フィヒテが措定を絶対的であるとするのに対し、ヘーゲルは総合に強調点を置く。 

                           日本大百科全書より。

 

 ぶっちゃけ規定という単語で事足りるのですが、なんかかっこいいのでこの単語を(1)の意味で使っていこうと思います。

 

 筆者は意思決定をする際、無意識の内に「自動的に措定される」道を選んできたような気がする。最初は中学で運動部(陸上部)に入ったことだと思う。結構真剣に将棋部と悩んだけど、「何だかんだで運動部にしておいた方が絶対に良い」という直感に従って陸上部に入った(結果的にはこの選択が正解だったと確信している)。正確には、「10代のうちに肉体的苦痛(疲労)を強制的・継続的に体験しておかないと自分は柔になる」という直感だ。ただ今思えば陸上部を選んだのにはもう一つ、「一度入部すればその後5年間、ある程度行動面で措定される」というイメージ(このイメージは正しい)があったからというのもある気がする。

 次は東大受験。現状の成績的に教師には最難関校の受験を期待されている。そういうコースに乗るであろう存在としておそらく措定されている。目指しても特に不自然のない成績、寧ろ目指さない方が「なんで?」と思われるレベルではある成績。そして、東大受験は特に自分の意向に反する意思決定ではない。ならば乗っかろう。

 最後が大学で躰道部に入ったこと。動機は純粋な内容的興味だけではなくて、やはり入れば相当厳しく措定されるだろうなという面も非常に大きかった(当初の想定よりも措定されすぎたのが実情(笑))。

 これらは皆、「自分の意志とは関係なく何か茨の道を進めと言われ続ける環境に甘んじたい」という心理の現れだった。茨の道を進むので成長は担保されているし、その進む道は外生的に決まった状態で降ってくるので自分で考えて決める必要がない。自分の内的な欲望が入ってくる余地がない。だから、責任から逃げ続けられる。自分の行動を自分で決めるという責任から。中高と大学の部活については、筆者の意思決定は進むべき道を決める最初の時だけで、後は外から措定され続ければ良い。それで上手く行く。という算段だった。

 

 でも、もう勉強に関して措定されるのはまっぴらだと思い、だから第二外国語のイタリア語を必要以上に勉強する気が起きなかった。東大受験を決めた時の自分ならば、「自分はイタリア語のクラス→当然イタリア語を勉強しよう」と、既成の措定事項に従ってそのまま学習を続けていただろう。でもここに来てさすがに馬鹿らしくなった。自分の原初的な意思を探しもせずに東大受験という外からの措定に従い受験勉強に魂を売ってきたのだ。イタリア語への熱意がプラスでもマイナスでもなくはっきりとゼロであるならば、試験以上に勉強することはない(ちなみに、マイナスだったら逆に勉強していたかもしれない。この辺は別記事で書くかもしれません)。この時「しない」ということを主体的に選んだのが、筆者の自我の萌芽だったと言えるかもしれない。そう、受験勉強では完全に自我を殺していた。非常にきついが、それによって結果を残せば後から見た時に絶対に後悔しないし、(今ほど)勉強しなくていいという解放感がこの上ない幸せをもたらすだろうと考えていた。今考えてみると、前者の見立ては正解だったが、後者の見立てが正しかったのかは一概には判定できない。

 

 勉強しなくていいという自由。このような自由を消極的自由と言う。対して、自分の内なる欲求に基づきそれを実現できる自由を積極的自由と言う。この2語は筆者の造語ではなくれっきとした哲学/経済思想の分野のタームだ。詳しくは知らないがざっくり言って上記の認識で構わないと思う。筆者がこの2つの自由の概念に初めて出会ったのは高校の現代文で教師からの紹介があった時だ。最初は「自由という言葉を使ってなんかカッコつけてるだけじゃないのか?」と思ってしまったが、考えれば考えるほど、確かに自由はこのような2タイプに分けることが出来るということに妙に納得し、感動したのを覚えている。そしてこの2語には大学3年生の時、経済思想史という授業で再会した(この授業は面白いです。数字が一切出ないので他学部の人で興味があったら是非取ってみてください)。

 

 この消極的自由という概念を念頭に置くと、自分が何故「措定されたがるのか」が分かってくる。つまるところ自分は、「あえて自分を措定される環境に置く(=外から縛られる)」ことで、そこからの解放による(=消極的自由の獲得による)幸福を得ようという基本戦略を貫いていたのだ。また部活・受験双方について、毎回の練習(被措定の時間)が終了した後の解放感と、卒部/入試後の「丸ごと全て終えた」という解放感を両方想定していた。

 消極的自由は、その獲得の前に必ず「縛られる」という前段階が必要となる。そしてその縄はきつければきついほど、(時間が)長ければ長いほどその後の自由を強く実感できるというのが一般的だ。そして、その縄には2種類ある。解いた後に自分が成長できる縄と、ただ自分の資本を奪うだけで何ら建設的効果をもたらさない縄だ。前者を「投資」、後者を「無駄」という。筆者は運動部および受験勉強をきわめて信頼できる投資案件と捉え、成長プラス消極的自由による幸福を得ようと考えていたということになる(ここまで鮮明に言語化したのは今が初めてだが)。

 部活に入るにあたって「成長できそう」という動機は別段珍しくないと思う。ただ、「消極的自由を得たいから」という理由で入る人はかなり珍しいのではと思う。特に躰道部において、一年次から薄々感じていた自分と周りの部活に対する温度差の本質はおそらくそれだった。やりたい競技と言われても特にない。ただし、何かやれと言われたら、後で消極的自由を強く感じたいのでできる限り頑張る(=負荷をかける)。自分の場合は三年次の途中までは昇級審査というある種完璧な被措定ルートがあったので、これ以上ないくらい自分のニーズに合っていたということになる。長く険しく苦しかったからこそ諦めずにやっていたのだと思う。ただ、三年次から筆者は並行して積極的自由の幸せを追い求め始める。一度知ってしまった積極的自由の味は大変刺激的だったのだ。黒帯を取得してからは自分を措定するルートが終わってしまったので、全面的に積極的自由を追求していった。この自由の素晴らしさを教えてくれた部活には感謝しても仕切れない。

 ここで、一旦筆者自身の整理も兼ねて、筆者の脳内での用語の関係を整理した図を挿入する。

f:id:nialp:20190204102338p:plain

仮説


 概ね上の様な構造が成り立つと考えている。消費と投資について詳しくはまた別の記事で扱う予定。

 今一度確認しておくと、積極的自由とは「してもいい自由、できる自由(内的志向に基づく主体的な追求)」で、消極的自由とは「もうしなくていい自由(外的抑圧からの解放)」だ。そして縄は、ある程度苦痛を与える行為だ。投資とはエネルギーを使ってレベルアップする行為なので、縄の一種である。

 上の図で注目してほしいのは、投資は積極的自由と消極的自由の双方をもたらし得るという点。でも片方しかもたらさないかもしれない。その辺りは個人の向き合い方による。一つ言えるのは、エネルギーを注ぐというある種の苦痛(負荷)を味わいながらも従事しているその時間に感じる自由が前者で、その時間が終了したためもうエネルギーを注がなくてもよいという、事後に感じる自由が後者だということ。ちなみに、筆者が部活で積極的自由を追い求め始めてからも、毎練習後に消極的自由はあった。ある程度の緊張感と集中力を維持する時間が終わるので当然だ(入部当初の目的である)。この意味で躰道部は両義的な場だった。

 

 さて唐突だが、22年生きてきた筆者の結論としては、投資由来の積極的自由の価値は消極的自由の価値に遥かに優るということである。ソースは筆者である(笑)。筆者は「(受験生時代と比べれば)全然勉強しなくて良い」という消極的自由を思い切り謳歌するために敢えてハードルの高い東大受験(縄1)を目指した。そして合格後は予定通り縄1を解いた、つまり第二外国語というステータスに措定され続けることを意図的に終了した(単位取得以上の更なる勉強には手を伸ばさないことにした)。そして、縄1からの解放と同時に部活という縄2で自分を縛ることにした。これも、消極的自由のためである。しかし意図せず途中からこの縄2によって積極的自由を知った。これが非常に良かった。

 知ったという書き方をしたが、実は筆者は投資由来の大きな積極的自由を既に一度経験していた。高2の時の学園祭の経験。自分にとってはとても大切な経験だった。大学に入ってからこれを忘れたわけではなかったが、受験であまりに疲弊した筆者はエネルギーを縄2以外に注入する気はなかったため積極的自由を求めようと思わなかった。積極的自由と言うのは心惹かれる何かに出会えるかどうかの運要素が強いが、消極的自由はとりあえず大変なことを頑張っていれば手に入る。運動部はそれを担保するので、確実に手に入る消極的自由を選んだという訳だ。安定志向が滲み出ている。

 余談だが、学園祭での積極的自由と躰道部でのそれにはいずれも、もともとすごく苦手で嫌だった事柄にチャレンジしてみたら面白かったという共通点がある。筆者は、ゼロから這い上がるのが好きなのかもしれない。

 話が逸れてしまった。投資由来の積極的自由が消極的自由に優るという話。結局筆者が求めた縄1からの解放は、それだけで幸せになるようなものではなかった。寧ろ虚無感と紙一重だ。本当に価値があるのは縄2による積極的自由の追求だった。また同じ縄2でも、黒帯まで辿り着き審査から解放されたという消極的自由より自分でやると決めた弐段審査という積極的自由の方が遥かに価値があった。そういうことが分かった。

 

 基本的に消極的自由目当てで生きてきた今までを後悔する気持ちは無い。寧ろ、学生の間にどちらも経験した上で上記の結論を出せたということで満足している。でも、これからは積極的自由を求めて生きていこうと思う。個の意思を圧殺して淡々と「こなす」経験はもう十分だから。措定される中でも何かに価値を見出し、積極的に追求していく。それはすぐには見つからないかもしれないが構わない。何に価値があるのかは十人十色なので、誰も教えてくれない。自分自身でそれをずっと探し続ける必要がある。これが大人という存在だと思う。大人になります。

 

 今回の曲です。free fall!のとこめっちゃ好きです。

MAN WITH A MISSION - Hey Now - YouTube

 

language~たぶん当たり前すぎること

 どうして3月末にバイトすることになってんすかね。社会人まで秒読みの人間がどうして他人の勉強見なあかんねん、自分の事で手一杯だっつの。あと、千葉県に住むことになりました。は?聞いてないんですけど。まあいいけど。あと、tunefab spotify music converter貴様は仕事をしろ。金払って落としてんだぞ。当たり前のことを当たり前にできないアプリは、それができない人間の何十倍も質が悪いぞ。なぜかというと機器というのは人間と違って優劣を純粋にスペックでしか測れないから。おい、聞いてんのか。

 

 冒頭から不満を爆発させてしまい申し訳ありませんでした。おかげさまでスッキリしました。本当は、怒りを感じた対象には普段からリアルタイムで正面切って怒鳴りたいところだけど、まあそれやってると社会的に生きていけなくなる。だからどうしてもという時は「気づかれるか気づかれないか」の瀬戸際を責める感じでねちっこく口撃するのが筆者の得意技で、あろうことかバイト先の教え子に対してよく使っています。いやでも、ほんとひどくて。表に出てる不規則動詞の活用全て覚えて来いって厳命して来週までに覚えますって約束させてんのにたぶんもう2ヶ月くらい覚えてないのよ。今年中3になる奴が。毎度テスト作ってんだからその労力に見合う成果を出せや。自分、親、俺、塾長みんなにとってのプラスになるというのに、なぜやらない?高校行きたいって前言ってたよな?あ?

 

 愚痴パートは第一段落で終了する予定だったのに。はい。今日の本題は、言語です。

 

 言語ねぇ。ここだけの話、筆者は大学で第二外国語の勉強に精を出す人の思考回路が全く理解できませんでした。辛く険しい受験人生を終えた自分としては、これ以上実学でない学問を必要以上に勉強したくないと思っていたので(言語学習を実学として捉えてしっかり励んでいる人たちは本当に凄いと思っていました。将来X国で○○をしたいからX語を勉強する、というようにヴィジョンが明確だからです)。一応言っておくと別に見下していたとかでは全くなくて自分がイタリア語を試験で必要な分以上に勉強したいと思ったことが一度もなく全然その欲求が理解できなかったという話です。とはいえ、本気で勉強している人はともかく、「試験以上本気未満」で二外を自主的に勉強したってどうせ大した実力はつかんだろ、とどこか冷ややかな目線で見ていたのは覚えています。・・・煮え切らない書き方をしてしまいましたが、要するに「ファッション言語習得野郎」に、どこか嫌悪感を覚えてしまっていたのです。それは、「第二外国語」という、「科類」と並んで貴重な「共通言語」を好むあるいは勉強する(姿勢を見せる)ことで「自分はクラスの他の人間と強い結びつきがあり、仲良しである」と周囲に印象付ける、そんな魂胆が透けて見えるような気がしたからというのが大きな理由かもしれない。もう一つの理由としては、別の回で話す予定の「措定」という問題と関係があるのだけど今回は割愛。

 

 でも今では言語って非常に大事だなあと良く思うのです。本当に当たり前のことだけど、やっぱり言語というものにある程度習熟していないと、異なる言語を話す人と交流することが出来ない。そして、言語だけが言語ではないんだということにも気が付きました。言語は、言語の一種なんです。

 

 少し詳しく説明します。言語は、「共通言語」の一種、と考えると分かりやすいかもしれません。よく、「数学は世界の共通言語だ」って聞きますよね。「数学」の部分に、「音楽」とか「サッカー」とかもよく代入されます。そういった意味での共通言語だと思ってください。英語、フランス語、ドイツ語などいわゆる(狭義の)言語というのは、より広義の言語の一種に過ぎません。狭義の言語に限らず、あらゆる知識・経験・感性が広義の言語の一要素となり得ます。

 

 ここで広義の言語とは、「コミュニケーションの触媒」というような意味で使っています。他人、特に、知り合ってそれほど長くはなく、まだまだよくわからないことの多い相手とのコミュニケーションを想定すると、初期状態でどれほど相手との共通言語を持っているかが、短期的に見るとかなり重要なファクターになることが多いと思います。長期的に見れば、その人と共に行う活動が増えれば増えるほど自然とそれが共通言語になるので、初期状態での共通言語の重要性は小さくなると思いますが。でもやっぱり多く持っていて損はない。

 

 筆者は手持ちの広義の言語があまりにも少ないなということに数カ月前に気づきました。コンプレックスです。これは、今後の人生においてマイナスでしかない。だから、(優先順位はつけるにせよ)あらゆる分野にアンテナを張り、この世の全ての事象を「言語」として吸収していこうというのが目下の目標です。ちなみに今は特に、「スポーツ」「植物」「地理」「ボードゲーム」が心の中の主要なターゲットです。

 

 今具体例を列挙してて気づいたんですが、「教養」って行き着く先はここなんじゃないでしょうか。「教養って何?」という質問にしっかり自分の言葉で答えてくれる東大生の割合ってどのくらいだろう。筆者自身教養という概念の意味が全然分からなかったので、この言葉は実体のない虚像だと思っていて、したがって冗談の流れだとしても「お前教養ないなw」などと言われると「教養って何ぞ?こいつは意味を分かって言っているのだろうか」と毎回思っていました。でも今は分かる気がします。この世の全てが教養です。正確には、自分がその気になれば身の回りの全てを教養と捉え、血肉化することが出来ると思います。教養とは、他者とのコミュニケーションの触媒になり得る知識、論理、経験、感性、記憶、技術など本当に全てです。どれを共通言語として使うことになるのか、それは勿論相手側が持っている広義の言語の種類に左右されるので分からないけど、少なくとも一つ一つの事象を内部化しておいて損はありません。広ければ広いほど、深ければ深いほど、多くの人と深いところで交流することが可能となるはずです。

 

 で、これって我々が高校までで散々教師に言われてきたことと酷似してません?「○○を勉強しなきゃいけない/○○が義務教育の科目になっている理由は?」「いつか役に立つかもしれないから」。まあ小中学校までの筆者は素直にこの答えに納得していましたが、高校では遂に「古文・漢文ってどう考えても役に立つビジョン見えないな(まあ得意だし楽しいからいいけど・・・)。」という真理にたどり着いてしまい、大学受験の道具ということ以上の価値を見出せずにいました。でも、そういうことじゃないんですよね。古文・漢文が読める者同士はそこでしかできない会話ができます。それだけの話です。英数国はその実学的有意義さがはっきりしていて「役に立つ」という点に異論は出ないと思いますが、そういった意味では役に立たない古文漢文も、お互いに分かる者同士であればコミュニケーションの触媒になり得る。要するに、「同じこと」を学んでいさえすればなんでも良いのです。超テキトーに例示するなら、たとえばバイクの歴史でも良いし、アコーディオンの弾き方でも良い。サルの育て方や痴漢冤罪への対処法でも構わない。全ての生徒が同じことをやれば自動的に共通言語を生成できるはずなので、本質的には何でもよい。ただ、その中で普遍的なものならなお良いから、それも考慮しているのかな。文科省の考え方は知らないので何とも言えないけど。「役に立つかどうか」という軸とは全く別の「多くの人が知っている可能性が高い(したがって共通言語として使い、多くの人と深く交流できる可能性が高い)かどうか」という軸があって、後者の見地から学問なり体験学習なりを捉える時に世間はそれを「教養」と呼ぶのでしょう。役に立つかどうかは置いといて、単純にコミュニケーションの幅が増える可能性が高まるから勉強した方がいいわよ~ということを世の先生がもっと強調すれば、うちの教え子みたいなやる気のない生徒も少しは減るんじゃないかと思う。というか、「教養」という単語についてそのような説明を受けていれば筆者は教養学部時代にもっと目を輝かせていろいろ勉強していたような気もする。つまりね、もう「教養」という言葉に何か神聖不可侵かつ不可知的で崇高な匂いを与えて学生を手玉に取るのは止めませんかと。そんなことをするから筆者の様に前期教養学部に全く価値を感じない人間が出てくる。教養というのは、持っていたらちょっと人付き合いが楽しくなるかもしれない素敵なスパイス。そんだけ。  と、逆にこうやってシンプルに定義した方が何百倍も魅力的に響くのは筆者の耳にだけでしょうか?

 

 (広義の)言語について書くつもりだったのに教養という言葉について脱線してしまいましたが、まあこの二つはほぼ同じことなのでいいや。社会人として様々な人との出会いを繰り返す未来を想像し、色々なこと(言語)を知り、学び、経験しようと思った筆者でした。

 

 今回の曲です。冒頭のドラムと、それに続いて流れ込んでくるギターノイズの洪水、その向こうから聞こえてくるような叫び声。このイントロがかなり好きです。今日のテーマとは何の関係もありません。

Dinosaur Jr - Little Fury Things - YouTube

痛み

 部室返還が叶ったようで本当に何よりです。柔道場から若干遠のいてしまったけど・・・。

 

 小学生の頃から、自分に子どもができたらどんな名前にしようかとしばしば妄想していた。男の子であれば、個人的には普通に漢字で、読み方は奇を衒ったものではないものにしたいと一貫して思っている。使う漢字は意味ベースで悩みに悩んで選び、名前として最も違和感のない読み方に決めたい。女の子であれば平仮名が混じっていても別に構わないかなと思っている。もう10年ほど話していないし通っている大学も忘れてしまったほどだが、同じマンションに住んでいた幼馴染も名前に平仮名が入っていた。平仮名の利点としては、学生の間、開始の合図が鳴ってから名前を記入するタイプの試験で1秒くらい問題を解く時間が長くなることだろう。2年ほど前にミスドできな粉が含まれているドーナツを食べている時に「きな子」って響きがかわいいなと思いついた。音ベースで考えるのは悪くない。漢字を当てるとすれば「綺/紀/季/希/+菜/奈/和+子」のうちどれかかな。希奈子ちゃん。季和子ちゃん。うーん、迷う。忌茄子はないということは確かだ。ていうかこれじゃ初見で100%「きなす」って読まれるでしょ。なんて、結婚もしていないのに何を考えているんだろう。それに、奥さんの意向を何も考慮していない。

 

 名前を考える時に少し気になるのが、マイナス的なものをマイナスする二重否定的な名前ってあまり見ないというかたぶん役所で受理され辛いのかなっていう点。例えば、「破邪」くんというのは聞いたことがない。たぶんこの名前を付けようと思ったら対偶をとって「顕正」くんとするしかない。名前が漢字二文字なら、プラス(またはニュートラル)とプラスの組合せが殆どなのではないだろうか。おそらく、あからさまなマイナスが入っていたらたとえ二重否定的な名前でも咎められるだろう。

 

 筆者は名前をつけるにあたり、大体の人と同様に、その子にどうなってほしいかという思いを込めたいと思っている。しかし、基本的に子どもに自分の価値観を押し付けるつもりはない。最低限の道徳倫理、社会性が身に付くのであれば後は自分の幸せを目指して自由に生きてほしいと思っている。ただ、たとえば「不殺」くんと名前を付けるのはあまりにも当たり前すぎて、大事な名前枠をわざわざそれに費やす必要がない。現代日本で子供に人を殺してほしいと思う親などいないだろう(ちゃんとした軍隊がある国だったり日本でも戦国時代とかだったら「敵を倒す」みたいな意味で名づけられることってあるのかなあ。すっごい偏見だけど中世イスラムとかなら有り得そう)。込めたい思いとして差別化できない。さすがにもう少し、個人的な思いを投影するべきだ。また、これは典型的なマイナス×マイナスだ。殺の字が入っている時点で役所的にアウトだろう(「悪魔」ちゃんと名付けようとした親が止められたという話は有名だ。殺の字は、たとえそれを打ち消す意味の名前だとしても無理だろう。まあ悪魔の場合はマイナスにマイナスを足しているという点で不殺とは大きく異なるが)。

 

 それを踏まえて、じゃあ、どんな漢字を入れたいか(以下、男の子を想定する)。うーん。先述の通り、なるべく自由な生き様を謳歌してほしいから、やはり普遍的な美徳に関するものがいい。信、真、紳、仁、義、玄、徳、聖、誠、実、伯、忠、公、孔、明、悟、理・・・キリがない。ちなみに筆者は三国志が好きなので結構影響されていると思う(だから、実は音読みを重ねて字(あざな)っぽくしたいという野心がある。まあこれも未来の奥さんとの協議が必要だが。というか果たして筆者は結婚できるのだろうか)。それにしても、どの漢字も良いなあ。寿限無みたいに、全て名前に入れたいくらいだ。選べない。

 

 おっと待て待て。今、名前をつけるとしたらという前提で考えてしまっていて、実際名前によく入っている漢字ばかり頭に浮かべてしまったが、名づけるという前提を忘れて考えた時、筆者が本当に子どもになってほしい姿って何だ。一つ選ぶとしたら、何だ。子の生き方を決めたくないという自分でも、これだけは譲りたくないという道は何だ。

 

 と考えた時に思うのはやはり「痛みの分かる人間」になってほしいという事だった。筆者が人間を見る時にいちばん大事にしている評価軸でもあるかも知れない。これは自分で何となく思っているだけかも知れないので公言するのは怖いが、筆者は他者の痛みを気にする方だと思う。もちろん、気付かずに誰かを傷つけていることも多々あるだろうし、何より、気付いていながら自分のために他者の痛みを意図的に無視してしまうこともよくある。この時は凄く自分が嫌になるが、正直自分が生きていくうえで誰も1mmも傷つけないというのは無理だと割り切ってしまうしかない。そうやって「鈍感なフリ」をして生きていくのだろう、これからも。悲しいが自分は超人ではないので致し方ない。周りの人全員を救いながら生きていたら、自分が生きていけない。ある程度は自分でどうにかしてもらうしかない。それはもう、お互い様だ。

 

 そう割り切ったとてなお、痛みに鈍感な人を心から羨むことは、筆者にはどうしてもできない。絶対、鈍感な方が楽だろうし、鈍感か敏感かということに優劣はない。よほど鈍感でない限りは、それもまた個性の範疇だと思う。でも。自分の子にだけは敏感でいてほしい、なぜかは分からないが。もし子供が鈍感だったら自分は彼を愛せないと予見しているからかも知れない。全ての痛みに対処できなくてもいい(無理だ)。だからせめて、感じることくらいはできる人間になってほしい。そしてその明暗はなんとなく幼少期に決まる気がしている。この時期にどれだけ劣等感、絶望、敗北、理不尽、義憤、悔しさを味わえるか。弱者の痛みは、早いうちにインプットしておかないと将来その感受性が麻痺してしまうだろう。これさえ満たされれば筆者はそれ以上のことは自分の子にあまり望まないだろう。じゃあ名前は・・・「痛解(つうと)」・・・うーん、やはり二重否定系は厳しぃ!前衛的すぎるか・・・!「慈」っていうプラスの一文字で代用するほかないかもな。もう一字は奥さんが選んでくれたら最高だな。

 

 本日の曲はこちら。いやあこれ初めて聞いた時ほんとに鳥肌立ちましたよ。出だしから嘘みたいにかっこいいし、リフが最強すぎて永遠にループしてほしいレベル。それから、こんな叫びは本当に痛みを分かる人にしかできない。彼が世界中で愛されてるのはそういう部分も大きいんだろうな。それではどうぞ、

Bon Jovi - Hey God (Long Version) - YouTube

人間三層説

土曜練

現役部員 

コミプラも

OBの俺

家でまったり

 

過去最速で短歌を作ってしまいました・・・今年一年間頑張ってください!

 

 今日は掲題の通り、筆者が思う人間三層説なるものについて、自分自身で整理しようと思う。たぶんいつもよりはシンプルな話になるはず。

 

 この説はその名の通り、人間は3つの層から成ると考えるというものだ。筆者には心理学的な知見は殆どないので専門的な話は何一つ分からないが、このように(便宜的に)考えることが人付き合いをしていく上で役に立ちそうだと思ったので提唱することにした。

 

 さっそく3つの層について紹介しよう。外から順に「表層」「外層」「内層」と呼ぶことにする。表層とは、簡単に言うと外見である(来ている服なども含む)。他に、声質とか、香水の影響も含む匂いなども表層の一要素である。要するに五感で認識できる情報である。

 表層が人間の物理的な部分(外面)であるとすれば、外層・内層はともに人間の心理的な部分(内面)に相当する。外層とは内面のうち多くの人に抵抗なく公開できる部分で、内層は公開するにあたり一定の考慮を要する部分の事である。外層に比べてよりパーソナルな部分と言ってもいい。

 外層・内層について少し詳しく話をしよう。外層とは「〇〇大学△年生の××です。趣味は□□で、※※サークルに入っています」というような肩書きや、「(今食べているこの料理が)おいしい」「(今立っている高い場所が)こわい」といった単純な感覚の表明、「今度の飲み会に参加する」という意思の表明など、日常的にあるいは初対面同士の会話でよくなされるようなコミュニケーションから分かる相手の情報だ。一方内層とは「誰が好きで誰が嫌いなのか。また、それはなぜなのか」「今、本気で取り組んでいることは何なのか。それに対してどのような熱い思いを抱いているのか」「日々、どんなことを思い、感じ、考えて生きているのか」など、一歩踏み込んだ関係でないとなかなか伝えたくならないような部分だ。

 もちろん、この2つの層を明確に区切ることはできない。また、人によって同じ項目でも外層と内層のどちらに入るのかは異なる。外層と内層の違いはその人にとっていつでも誰にでも公開してよい自己なのか否かという点にあるのだ。したがって、外層と内層の厚みの相対比には当然個人差がある。そして、これらの絶対的な大きさにもまた個人差がある。外層が大きくなる例としては、たとえば資格や肩書をたくさん持っていたり、五感の感受性が強く食べ物や動物や音楽等々比較的物理的な要件によって好悪が左右されるものに対する拘りが強かったり、色々な経験を持っていて話すエピソードが豊富な人が挙げられる。筆者のイメージする外層についてなんとなく分かっていただけたかと思う。内層が大きい人というのは意志(≠意思)や信念があったり色々なことを考えていたり大切な何かや確固たる価値観を胸に秘めている人である。

 

 経験上、新しいコミュニティが形成され見知らぬ者同士が集まった時に最初にその集団の中心となるのは「その集団の他の人よりも外層が厚く、それを進んで表明する人」である。当然である。舌が馬鹿(幸せな舌と言っていただきたいものだが)ゆえ何を食べてもおいしく感じてしまいお店のメニューに対する感想が貧弱な筆者と、「おいしーい!」と言いながら頬に手を当てて幸せそうに、そしてその食材についての豆知識まで教えてくれながら同じメニューを食べる女性のどちらがいいかと言えば後者に決まっている。あるいは、海外旅行をしたことが一回しかなくそもそも飛行機も数えるほどしか乗ったことのない筆者と、東南アジア各国を巡る中で陥った嘘みたいに危険で衝撃的な経験がたくさんある人間、どちらと飲みたいかといったら普通は後者になるはずである。また、履歴書は資格や学歴の欄を通じて驚くほど簡単にスペック(個人的にはあまり好きな言葉ではない)の差を浮き彫りにする。

 

 まあある意味当たり前である。定義からして外層というのは自己のうち気軽に公開できる部分の事であるから、その部分が大きいほどコミュニケーションのとっかかりとなる抽斗が多いということになる。単純に話題の提供材料に事欠かないので、このような人がいる方が基本的に宴席(特に大人数)は盛り上がる。しかし、外層が厚いというだけでコミュニケーションが活性化するわけではない。当たり前だが、それを表明しなければ意味がない。すなわち「自分のネタを話す」という意思決定がなければ外層の厚さが活かされることはない。

 

 ではその意思決定にどのような要因が絡んでいるかというと、最も大きいのは「聞き手がそれに最低限の興味を示し反応してくれるか」「聞き手を退屈させないか」といったものだろう。これは殆どの人に共通すると思う。しかし、これをどの程度気にするかの程度にはやはり個人差がある。ここでは①発話高ハードルタイプ、②発話低ハードルタイプの2種に分けるとしよう。即ち①は自分が今からしようとしている話がある程度相手の関心を引くと確信できない限りその話はしないタイプで、②はそのようなことをそれほど考慮せずに取り敢えず話を始めてみるタイプだ(あなたはどちらのタイプだろうか)。

 

 したがって、外層が厚く、かつ②の人は、初対面の相手とある程度の仲の良さになるのが最も早いだろう。相手が無口なタイプであったとしても、取り敢えずこちらは喋り続けられるだろうから。よほどうるさかったりしない限りは喋りかけられて悪い気になる人はいないので、基本的にこのような人は親しみやすいはずだ。

 しかし、そもそも外層が厚い時点でだいぶ有利ではある。何故なら、外層が厚ければ厚いほど、その中に聞き手の興味を多少なりとも惹起させるものが多くなるはずだから。そのような自信のある話が豊富にあるのであれば、①のタイプだとしても問題なかろう。要するに、インパクトのある話をたくさん持っている奴は無条件に初対面のコミュニケーションに強いよということだ。相変わらず当たり前の結論・・・。

 

 ここで一旦自分語りタイムを発動させてほしい。筆者は前の記事で「OSの理解や解明」が好きだと言ったが、嫌いなことも考えてみた。おそらく筆者が最も嫌いなのは「誤解されること」だ。

 

 テレビ番組のトークセッションのような場で聞き手やファシリテーターが相手の話(特に、その人の内層についての話)に対して「なるほど~、〇〇ということですね」などと安直にまとめ、話し手はあまり納得していなそうな表情を見せるも、聞き手がそのまま次の話題に入ってしまったり、あるいは話し手がそのまま話を続けたりする場面に嫌というほど多く遭遇する。筆者はこれが不愉快でならない。話し手は必ずしも構造立てて誰にでも論点を分かりやすく話しているわけではないだろう。実際、テレビに出演するからといって、毎回そんなことをする義務はないと思う。したがって、話し手の頭の中でも話した内容について明瞭に整理できていない場合だって多々あるだろう。それを、初めて聞いた見ず知らずの人間がかように簡単に「〇〇」という一言でまとめられるものだろうか。そんなことを百発百中で出来る人間は本当にごく一握りの超絶に頭の回転が速くかつ相手のバックグラウンドを想像する力にも恵まれた超人でなければ難しいと思う。決められた尺の中で視聴者に分かりやすく伝えなければならないテレビという環境ゆえの制約なのかもしれないが、そんなに簡単に他人の内層をまとめるなと、そのような光景を目の当たりにする度に思う。少なくとも、もし筆者がその対応をされたらすごくもやもやすると思う。自分がたどたどしくも苦心して綴った言葉を、ありふれた言葉で何の苦労もなしに概括されてたまるか。そんなことをされたら確実に齟齬が生まれる。端からみたら微妙な違いかもしれないが本人的には無視できない違いが、受け手との間に形成される。何故か分からないが、筆者はこうして自分自身のことについて誤解されることがひどく嫌いだ。いや、他人同士のコミュニケーションなのだから、完璧に認識をシンクロさせるということは極めて難しいことは分かっている。だが、今後長く付き合っていく人たちや家族などとは、あるいは、認識をすり合わせる必要のある状況においては、極力自分を正しく理解させる(make myself understood)よう努めるべきだろう。中学生の時、筆者は自分を理解しようと手を差し伸べてくれそうな大人、あるいは理解できそうな大人を周りに見つけることはできなかった(両親も含めて。話にならなかった)。この体験が、他人を皮肉めいた目でみてしまう今の筆者を形作ったような気がする。少し脱線してしまったが、誤解されたくない筆者は、だから、誤解されるリスクを冒すくらいなら極力自分のことについて何も話さない方がマシだと、心の奥で思うようになってしまった。つまり、内層が大きくなった。

 

 もちろん筆者はなんでもかんでも自分の思うことに同意してほしいということではまったくない(そんな人がいたら社会で生きていけないだろう)。そうではなくて、自分を正しく理解した上で、「へぇ、あなたはこうなんだ」と思ってほしいだけなのである。直後に「俺/私には分からないけど」という感想が続いたって一向に構わないし、なんなら「大馬鹿者!屑!」と蔑まされたとしても全然良い(寧ろそんなことを言ってくる人がいたら痺れてしまう(笑))。大事なのは「俺は俺(私は私)。筆写は筆者」として、同じだろうが違っていようがまずは正しく自己と筆者を別ではあるものの同等な存在として認識してくれる(自己と外界の境界を正しく認識している、ということ。過去記事を参照してほしい)というこの一点なのだ(そしてその際に筆者の言っていることを雑に誤解されるのが筆者は嫌というわけだ(笑))。換言すれば、自他の価値観の違いを認識したうえで双方をリスペクトしてほしいということだ(多様性の尊重が叫ばれる現代ではよく言われることだと思う)。それが出来そうにない人に筆者はあまり魅力を感じないし、正直あまり一緒にいたくない。また、自分でも常々自分だけの尺度で人を決めつけないようにしようと心がけている。最低でも3カ月ほど様子を見るまで、基本的にその人の自分の中での位置づけを確定しないように気を付けている。

 

 外層がその名の通り外から自分を定義づけるという側面が強いのに対し、内層は内側から自分を説明するという側面が強い。だから、「その人本人」としてどちらが核心かと言ったらもちろん内層の方ということになる。だから、筆者は外層よりも内層を誤解されることの方が遥かに嫌だ。そして、内層は外層のように簡単に説明できるものではないので、伝えるのが難しい。だから中途半端に話してしまえば誤解されてしまう(それを20分以内に初対面の相手に伝えきれというのが就活の面接だ。これでは初めから、内層を正しく伝えることなどできるわけがない(と、感じる筆者のような人もいるだろう)。そして誰でも嘘をつくことが出来る。誰も悪くない。本当にクソだ)。故に人は、内層を簡単には他人に話したくないのだと思う。付き合いが浅いうちは外層の話の割合が多く、徐々に内層の話が出来るようになっていくというのは、この人は自分が内層を語ったとして理解してくれるのだろうかと見極めるためではないだろうか。また、サシ飲みが楽しい理由もおそらく内層を語り、聞き合えるからである。大人数に向けて話すと、どうしても理解の程度に差が生まれよう*1。それをその場で訂正していくのはしんどいし楽しくない。だから、1:1でじっくり話せるほうが個人的には好きだ。そのような観点から考えると、多人数コミュニケーションと1:1(あるいは少数)コミュニケーションでは求められる自己が異なるのかもしれない。前者では人数を考慮した最大公約数的に刺さる外層の話、後者では普段できない内層の話。

 

 筆者は以前ある友人に「筆者の良さは長く付き合ってみないと分からない」と言われ、妙に納得してしまった。確かに、自分を気に入ってくれている(と筆者が感じているだけかも知れないが)人というのは、皆ある程度長い間自分を見てくれた人のような気がしたのだ。なるほど、筆者が本当に良い友を持ちたいなら、焦っても何も意味がないという事か。自分は外層で勝負する人間ではなくて、自分の内層を気に入ってくれる人が少しでもいてくれたらそれでいいじゃないか・・・と、今書いててものすごくすっきりしてしまった。幸いにも筆者は、その人が自分の内層を理解しようとしてくれそうか否かは直感で分かる。少し元気が出てきた。

 

 しかし、外層の薄い筆者は外層を分厚くしたい。やはり初対面で多くの人と打ち解けることができるというのは非常に優れたスキルだ。これについてはしコンプレックスでもあるのでこれから本気で頑張ろうと思う。

 

 最後に。筆者は内層が面白い人が好きだ。もっと色々な人の内層を覗きたい。だから皆さん毎日ブログを書いてくださいお願いします(いつもの)。

 

 今回はふと思い出したこの曲。当時の進研ゼミのcmのテーマ曲だったので覚えている人もいるかもしれません。いやあしっかし、どうやったらこんな素晴らしい曲が書けるんですかね?ちなみにサビで出てくる「理解」という語は本文中で意図した方ではない方の意味で聞いてください。「理解」できないと認めることこそがある意味で「理解」なのです。ではどうぞ、

ガリレオガリレイ 僕から君へ - Bing video

 

*1:文中で何度も「理解」という語を使ったが、ここで言う理解とは「自分と他人は違って当たり前」ということの理解であって、「他人の価値観が自分のと近いため手に取るように分かる」という意味での理解ではない。両者は決定的に違う

幸せになりたいですよね

 ちょっと2月の予定を何にも考えてなさ過ぎてこのままだと暇死します。外国行ってみたいけど母親と一回韓国に行ったきりなので大変心細い。何にも分からないので助けてください。というかまずは飛行機を取れと。はい。

 

 今回は予告通り、幸せの探求というテーマでお話しします。まず定番の質問をさせてください。「あなたはなぜ生きているんですか?」もしくは、「あなたが生きる意味って何ですか?」でも良いです。

 

 

 という問いに対して時々なされる回答に「理由なんてなくても生きてたっていいじゃないか」とか「生きる意味なんてなくていいんだよ」という類のものがあって、まあなんかこう、そう答えたくなるのは分からなくはないんですが(数学の問題で「解なし」って書くのはなんかかっこいいですよね)、本当にそうでしょうか(ちなみに別パターンとしては「その答えを探すために生きている」というものがありますが、こんなことを言っている奴は99%嘘をついています。だってそんなの哲学者以外ほぼ有り得ないじゃないですか。というか、それってつまり「それが見つかったら死んでもいい」ということですか?とすると構造的に自家撞着しますよね)?筆者はこの問いの答えを中学生の時結構真剣に考えていました。最初は、「地球上のあらゆる戦争を撲滅し、環境問題を全て解決し、貧困を根絶し、、、」とかなのかなと思っていましたが、すぐに「では仮にこの世から「問題」がなくなったら自分はどうなるのか?自分は何かを解決するために生きるのであって、その問題を解決してしまったら存在価値がなくなるのか・・・?」という壁にぶち当たって悩みました。簡単に言えば生きる目的が分からなくなりました。ただこの世に生を受けてしまったから習慣として呼吸を継続しているだけであって、自分はただCO2を吐き出し続けている有害物質が意識を持った存在に過ぎないのではないか・・・と、今考えると自己肯定感もくそもない究極に陰鬱な感じになっていました(笑)。そして割と真面目に上記の理由で自分は価値の無い存在だと思い込んでしまったので、これは本当に自殺した方が地球のためなんじゃないかとすら考えました。でもやっぱり死ぬのは物理的にとても苦しそうで勇気が出なかったし、生物として自死を選択するというのは倫理的にあまりにもまずそうだという直感があったので、本格的に自殺の方法を考える段階にまでは至りませんでした。あとは、なんで他の人間がのうのうと生き続けてるのに俺が死ななあかんねん、もっと死んだほうがいい連中はこの学校を見渡すだけでもたくさん見つかるはずだろという、今思うと本当に最悪の不公平感を抱いていたというのもあります(笑)。

 

 という感じで中学生時代の筆者の脳内は青春とは程遠く、人生の根本についてなかなか答えの出ない迷宮を彷徨っていました。結局考え込みすぎて分からなくなり、これ以上考えても精神を害するだけだと判断して中3だか高1だかにすっぱりと考えることを止めたら結構楽になりました。

 

 そしていつのことだったかなぜか忘れてしまったのですが、筆者は遂に冒頭の問いに対する答えとして100%納得できるものを見つけたのです。はい、筆者が生きる意味とは「自分が幸せになるため」でして、これ以外にありません。これが全てです。そして、筆者以外の全人類にとってもこれが正解です。これ以外に生きる意味は一切存在し得ません。

 

 前回、筆者は自分に内在する幸せシステムを解明したいとどこかで思ってしまうと書きましたが、たぶんそう思うようになったのは上記の命題(生きる目的は幸せになることである)が真であると確信したからだと思います。まそれは置いといて、この命題について「そんなことはない。私は、自分が幸せになるためだけに生きてるんじゃない。自分が大変な思いをしてでもあの人・あの組織を幸せにしたいから生きているんだ」という反論が容~~~易に想像できます。まあ、同じことを考えた事のある人ならすぐに分かると思うんですけど、他人のために生きたいというのは、その他人が幸せになること、もしくはその他人を「自分の手によって」幸せにすることが自分の望み=幸せだという図式があるからですよね。

 別の人はあるいは、「自殺者という反例が数えきれないほどいる」と反論するかも知れません。それは単純に、生きる苦しみから逃れたいからですよね。死ぬ方が相対的にましだと予想しているからです。その人だって、たとえば「自殺した者は死後、現世の苦しみを遥かに上回る苦しみを永劫に味わう」という教えを心から信じていれば自殺しないはずです。要は、相対的に考えた時に死ぬことの方が幸せレベルでいうと上だと思ったから死を選んだだけです。

 ということで、どんなに頑張って例外を探そうとしても「不幸」を目指して生きている人は見つかりません。一見そのように見える人がいたとしても、その人の深層心理をよく理解すれば、更なる不幸から逃れているということで必ず説明がつくはずです。

 つまり人間が生きる意味というのは幸福を探求、賞味する以外に有り得ないんです。これはもうそういう定義と思っても大丈夫だと思います。構造上そうなっているんです。実際に幸福になれるかどうかは別問題として。これは、人間の行動の根本原理を統一的に説明する非常に魅力的な命題です。筆者にとっては、誰の助けも借りずに見つけた宝物のような結論なのでした。

 でまあ。当然「当たり前だ。そんなの分かってる。その幸せってのが分からねえから大変なんだよ。あと、幸せが分かったとしてどうやったらそこに辿り着けるのかも分からねえんだよ」と誰もがツッこむと思います。もう何度も書いてきた通り、それは各個人が演繹的・帰納的に見つけていかなければなりません。すなわち、これ以上詳しいレベルの普遍的な公式はもうありません。というか、それを頑張って叶えることこそが人生なのでそれは本当に自分で頑張るしかないですね・・・。

 

 と、ここで終わってしまうと今回の記事で本当に何にも言っていないことになってしまうので(笑)、一つ、これいいかもなと最近気づいた考え方を発表させてください。筆者は幸せをワンランク具体的にかつ簡潔に考えるにあたり、「大切な物に囲まれて生きていく」というスローガンを立てました。

 

 話は大学二年生の頃に遡ります。2Sセメスターで今ほどではないですがかなりの暇を謳歌していた筆者は漫画喫茶に入り浸っておりました。ジョジョを1巻から読み進めていたのですが(筆者の例のコレクト主義により、途中の部から読みだすことなどできませんでした。6部まで読み終えて止まっているのが現状ですが、今のところ好きなのは2部と3部です)、よく行く下北沢のポパイという漫画喫茶の階段に、様々な漫画の名セリフシーンの一枚画像が貼ってありました。その中の一枚に、ルフィが「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!」と言っているものがありました。筆者はワンピースを読んだことが無いので前後の文脈は全く知りませんでしたが、それを見るたびに素直に良い言葉だなと思いながら階段を下りて3時間1000円くらいの料金を払っていたのを覚えています。以来、幸せを考える上で「自分の好きなもの」って(当たり前だけど)大事だなと強く思うようになりました。筆者はたぶん、人よりも嫌いなものが50倍くらい多いです。こだわりが強すぎて色々見えてしまうんでしょうか。分かりませんが、嫌いな物・人の話をさせたら半日くらいマシンガントーク出来る自信があります。そんな自分と正反対なイメージがあるのが渋谷や原宿にたくさんいそうなオサレJDたち。本当に偏見なのですが、彼女たちは自分の「好き」をとことん追い求めて生き、楽しんでいるように思えました。もしかするとその分、嫌いな事(たとえば、勉強とか?あ、ただの偏見です)から逃げてしまいやすいという傾向があるという可能性は捨てられません。でもまあ、なんとなく自分より幸せに思える。好きな物がたくさんある人はもうそれだけで、そうでない人より幸せであることは間違いない。

 

 そしてその好きなものっていうのは当然、物である必要はないわけです。物・事・人(・動植物)全てオーケーです。とにかく幸せになりたかったら、これらの「好きな存在」を増やして行くことが大事だと思います。ただし、人によって当然この「好きな存在」ポートフォリオは異なってくるわけなので、必ずしも友達が多い方が幸せだとかいうわけではないと思います(それらを厳密に議論しようとすると今度は必ず「幸福の質・量」の話をしなければならなくなりますが今は割愛します)。

 

 ではどうやって好きな存在を増やすかというと、当たり前ですがまずは「様々な人・物事」に触れていく必要があります。好きの反対は無関心という諺がありますが、裏を返せば無関心(≒知らない)の状態を無理矢理ひっくり返せば少しは好きになるかもしれないということです。ただ、これは何も意識しないで生きていると難しい。当たり前ですが、人が興味・関心のない対象に近づくことは止むを得ない事情がない限り普通はないからです。なので、そこを拡充できることが望ましい。たいして興味関心がなくても「ダメもとで行ってみっか~」と思ってフットワークを軽くしていくと、好きな存在が増える確率は畢竟上がります。でも、それが現実的に難しい事は筆者も読者の方も重々承知だと思います。まず、そんなに自由に使える時間というのがない。「目先のしなければならないこと」に終われているのが現代人の常なので・・・。

 

 さらに、とにかく色々なものに接触していくことにはそれ自身リスクもあります。結局好きになれなかったとか、対象が人である場合は特に、とても不快になったとか。筆者はこの前「根暗だよね」と言われましたが本当にその通りだと思います。基本的に見知らぬ人と会う時は効用がマイナス計上になると考えています。最初から期待値を下げていた方が、後で傷つかなくて済むので。人に対してはとても慎重です。ただ、割と多くの人に当てはまると思うのは、物・事に関しては人と接触する時ほどのリスクはないんじゃないでしょうか。失うとすれば金銭・時間(・場合によっては疲労や怪我など)程度なので。だから、少なくとも物・事については、どんどん新しいものに触れていくというのがいいんじゃないかと思います(ただしこれにも現実的にそう簡単に踏み切れない要因があることは分かっています。難しいね)。

 

 好きな存在を増やす第一歩としてとにかく接触するのが吉ということを話しました。では次に、接触したものを好きになるにはどうすればよいのでしょうか。これが今回筆者が考える肝なのですが、一つは「それを能動的に大事にすること」なのかなと思います。対象が物でも事でも人でも、手間暇・金・想像力を惜しまずにまずは誠実に自分から尽くす。そうすると自然と(無意識的であれ)「自分にとって大切な存在」になっているはず。これはもう殆ど「好きな存在」と言い換えてもいいと思う。そしてこれは特に、対象が人の時に大きな力を発揮するのでは?というのが、筆者が辿り着いた大きな仮説。人に対してちゃんと向き合うってことは非常にしんどいことです。でも、きっかけが外部からの圧力であったとしても、誰かを本気で支えているうちに、もう他人ごとではなくなる。これこそが愛着という概念なのではないでしょうか。愛着を感じる相手はすなわち、表現の機微を気にせず一緒くたにして言ってしまえば好きな存在ということになる。やや暴論ですが、尽くせば好きになるのです。

 

 しかし、好きになれるかはある程度運のところもあります。

 尽くした結果、特にそのことに対して何らかの形でリターンが来ると、もう病みつきになる。対象が人の場合に効果が大きいと思うのはそれゆえです。とにかくまず自分から大事にすることが、広義の意味での「好きな人」を増やすことに繋がります。そしてそれは自分の幸せバロメータの上昇を意味します。

 でも誰しもが何らかのリターンを与えてくれるわけではありません。その時は残念ながら大して自分の幸せバロメータが上がることは無いでしょう。でも、これはもう仕方ない。尽くす前に、誰からリターンがありそうなのかを知る手段を現状筆者は持ちません。非常に言葉は悪いですが、将来収益が見込める投資案件を確実に特定することは不可能です(投資・消費について思うことはまた別の記事で書く予定です)。好きになれるかが運というのはそういう意味で書きました。

 そしてある意味これと好対照なのが、物や事に尽くした時。盆栽を大切に育てた結果立派な形になったら嬉しいですよねきっと。陶芸なんかもそうでしょう、また、何かスポーツで努力をして結果が出た時の喜びは何にも替え難い。これらはいずれも物事に尽くしたパターンですが、人に尽くす場合と異なり、正しい方向に進み続ければ一応結果が出ます(相対順位の話になってくると話は別ですが)。つまり人に尽くす場合と異なり運要素がありません。

 

 長々と書いてきましたが何が言いたいかというと要するに、周りの物、事、人を意図的に大事にしてみることが長い目で見た時に幸せにつながるんじゃないかということです。「大切なものに囲まれる」というと受動的なスタンスに聞こえるかもしれませんが、それが意味するところは「まず自分が尽くすことで自分にとって大切なものをたくさん作る」という極めて能動的なものです。大切だと思えるところまで尽くすことは簡単ではないので。

 

 相変わらずクソ長文なのに結論は至ってシンプルで面白みのないものになってしまい、申し訳ありません。なんとなく世界の色んな宗教で言われていることのような気がしてきました・・・。

 

 今回の曲は、最後の方で今回のテーマをばっちり歌詞でぶつけてくれているこの曲です、4:00からだけでもよいのでどうぞ、

UVERworld "LIMITLESS" live at SAITAMA SUPER ARENA 2012 - YouTube

 

好きなこと

 年賀状くれた方、ありがとうございました。昨日、予想していなかった後輩たちからの分も届いていて、とても嬉しかったです。ずぼらなので、ここでまとめてお礼を言わせてください。ありがとう!!今年の成長を楽しみにしています!余談ですが、年賀状でいただく言葉としては実戦を褒めていただくか軽い(柔軟な?)スタンスを羨ましがられるかのほぼ2択で面白かったです。大体の人に同じような印象を持たれていたということが分かりました。年賀状、自己分析としてかなり有用な気がします。

 

 今回のテーマは延々と続く自分語りの枠です。題して、「筆者の好きなこと」。

 就活で「自分の好きな事」→業界、会社という流れを拵えてESに書いたり面接官に説明することはよくありますよね。皆さんは自分の答えにどの程度納得感を持っていましたか?説明を求められるということ以前に、将来仕事をする上で自分の中で「俺はこれが好きだ。だからこの仕事を選んでやっている」と思えた方が絶対良いだろうから、普通にちゃんと考えておきたいですよね。筆者はとりあえず突っ込まれる隙がなるべく少なくなるようにかなりロジックを重視して答えていました。実際、その論理(要は、「→」の部分です)に突っ込まれることはなかった。そこについては面接官は「納得」していた。でも、自分の好きな事(すなわち、「→」の出発点である「おおもと」)って本当にあそこで言っていたものだったのかというとかなり微妙です。大きくかけ離れていたということはないんですけどね。まさに、前々から筆者が主張している「自分の効用関数は不(鮮)明」という話です。まそれは置いといて、筆者は就活が終わってだいぶ経ってから、自分が好きなことを最大限抽象化して認識できるようになりました。就活中ももちろんずっと考えてはいたんですけどね。忙しかったあの時期よりも、かなり生活にゆとりが出てきた就活終了後の方がよく考えられるのは当たり前っちゃ当たり前です。そう考えると就活って皮肉ですよね。自己分析しろって言うくせにてめーが邪魔で時間がねえんじゃボケという。

 そもそも、「仕事に結びつくような「好き」」っていうのが難しいんですよ。例えば筆者はコーヒーが好きです。カルディでそれを選ぶ時間も好きです(行ったことない方はKALDIを見かけたら是非一度お立ち寄りください。色々売っていて楽しいです)。でもだからといってカルディで働きたいとは思ったことがない。それは、カルディが好きというその「好き」とカルディで働くことが結びつくわけではないから。映画や音楽も好きで、以前はTSUTAYAに通い詰めていました。でもそこの正社員になろうと思ったことは一度も無い。「それは他の条件を諸々考慮した結果でしょ」と言えばそれは確かにそうなんだけど、仮にTSUTAYAの平均年収が3000万でホワイトで倍率がそんなに高くなかったとしても(今、原理的に絶対にありえない仮定を鼎立させています)、たぶん受けなかったと思います。やっぱり、自分がTSUTAYAが好きということとそこで働くことが結びつかないからです。就活でよく尋ねられるこの結びつきは、当たり前ですがやはり一番重要です。定量的な他のたくさんの条件に勝るとも劣らず大事なのが、たった一つのこの定性的なファクターなんです(筆者にとってはです。そうでない人も勿論いると思います)。

 つまりここで求められている「好き」は、かなり掘り下げて考えてみないとなかなか見つからないような気がするんですよね。そしておそらく、なるべく抽象的に自分が好きな物事は何かと考えて、それをその仕事が満たすかどうかを知る必要がある。前回お話しした「思考」に他なりません(こうやって意図せず記事の内容がリンクしていくのは非常に心地よいです(笑))。

 

 で、筆者が見つけた自分の好きなことは何かってえと、ざっくり言うと「OSの構築」なんだと思います、たぶん。根本の仕組みやシステムを自分が頑張って構築して、あとはユーザーが自由・快適・効率的にそれを利用する。そして、自分が構築するというそのステップは知性体力精神力全てが必要とされるようなチャレンジングな環境がいいなあと。なぜか分からないけどたぶんこれが筆者が感じる超抽象的なレベルの「固有の嗜好感性」なんですよね。就活を通して(というか終わってからだけど)このことが分かったのでその点については就活は良かったです。

 

 そしてこのことは、筆者が関数という存在にどこか惹かれることを説明してくれます。関数ってOSに他ならないですよね。説明変数の取り得るあらゆる値について統一的に結果を教えてくれる指針です。関数についての記事を書いたのも関数が好きだからだと思います。そして、現実に効用関数があればいいのにと望んでしまうのは、「自分の複雑な幸せシステムを頑張って解明したい」という事なんだと思います。そう考えると、「既に存在する未解明あるいは複雑なシステム(OS)を理解したい」というのも筆者の固有の嗜好感性のようです。確かにそうです。筆者はf(g(h(x)))という合成関数を見ると、=i(x)と一本化したくなる衝動にかられます。これは、そのままではxとその代入結果が不透明な状況を、xだけでシンプルに説明する状況に変えるという作業のように感じるからです。システムの解明です。なんとなくこう、絡まったり結び目がある糸を解きほぐして真っ直ぐの一本にしていくような(文字通り、一本化)感覚が好きなんですよね。これ分かる人絶対いると信じています(ただ、得てして合成関数の方が見た目的にはすっきりしているものなのですが(笑))。また、(素)因数分解も好きです。こう、一見無秩序に見えるものが実は様々な因数の積だった、、、というあの感動。まさに、還元主義的な意味でのシステムの解明ですよねえ。たまらん。だから、筆者的にすごい脳汁が出る展開があるとすれば、すごく雑然とした形の関数f,g,hが与えられていて、この時f(g(h(x)))=0になるxを知りたくて、で左辺をxだけで表したらすごい分かりづらいけど実は因数分解出来て、その結果解が分かるって展開ですね。熱い。

 

 要するに、まだ体系化されていないけど実はきちんとした仕組みがありそうなことをしっかり分析してそれがどういった構造になっているか自分で考えて解明することで、目的達成のために何をすれば良いのかの結論を導き出し(方程式を立てて解を求めることと全く同じです)たいんですよね。筆者が実戦を楽しんでいた裏にはこのような理由があったのです。もちろん実戦含め現実の諸問題は頭で考えているだけでは絶対に解決しないので、実行してみて反省し何度でも立ち向かうことが肝要であり醍醐味です(過去記事と同じことばっか言っててすみません)。  というか今更で申し訳ないんですが、万一、万一部員以外で読んでくださっている方がいらっしゃったら、以下の動画を見て頂けると幸いです。

東京大学運動会躰道部 公式PV - YouTube

 

 このブログを書いているのにも一つそうした理由があります。グーグルで検索しても答えが出てこないような人間の心理や社会といった人文的な諸問題について自分で考え、左辺の糸をほどいて構造の本質を究明することで、自分や、あわよくばこれを読んでくれているあなたが幸せという右辺に少しでも近づければなと。それを満たす何らかの解xを見つける手掛かりになってくれれば幸甚に存じます。このブログ群のタイトル通り、これからも幸せ(と自己満足)を目指して頑張っていく所存です。てか初回で宣言した断定口調はどこいったんだろう。

 

 さて、「関数」の記事で予告した通り、理性偏重主義と関数に感動という2つのテーマをお送りして来ました。次回は幸せの探求というテーマでお送りする予定です。あ、別に最終回にはしません。

 

 今回の曲はプログレです。一般的にはtrack 1の知名度が高いみたいですが、初めてこのアルバムを聴いた時はtrack 3のこの曲の方が遥かに衝撃でしたね。なんというか、「音」を「楽」しむという意味でまさに「音楽」だと感じる曲の一つです。9分弱と長いですが是非BGMにどうぞ。ただし曲展開の起伏が激しいので(そこが好きなのですが)、作業業BGMにはお勧めしません(笑)

siberian khatru - Bing video

 

 

 

 

理性礼賛

 ブログを書き始めてから、毎日が楽しくて仕方ありません。

 

 前回は自分にとっての関数というテーマをお話ししましたが、その中で筆者は昔、理性偏重主義だったということに触れました。ここでいう理性偏重主義とは、「知識と論理的思考力が抜群にありさえすれば、自分個人の幸せを最大にすることができるだけでなく、人類が抱える問題の殆どは解決することができると考える理性崇拝的な態度」という意味で使っています。

 もちろん、今ではこんなことは有り得ないということが一瞬で分かります。もしこの通りであれば、早い話、我々東大生は同年代で相対的に見てかなり幸せを感じているに違いありません。そのような傾向を皆さんは感じていますか?僕は感じません。寧ろ幸福度としては、早稲田や慶応の人々の方が全体的に見てなんとなく高いような気もします(そう感じるのは筆者だけでしょうか)。まあこの手の話は無理矢理一般化して語られることが多く実に不毛なのでこの辺で切り上げておきます。とにかく、理性偏重主義は明らかに誤りだ。

 当たり前のことですが、真面目に考えてみるとこの背景には(前回のお話とも被るのですが)、「知性が高いほど自分の効用関数をよく把握できている、という相関関係が特に無い」という事実があるとも言えましょう。もしこのような相関関係が認められるのであれば、高学歴ほど自分の精神構造=効用関数をよく理解しており、最適な値を投入して人生を豊かにできるはずだからです。

 そう、ここが問題なのです(胡散臭い自己啓発本の様な語り口になってきていますが気にしないでください)。

 

 東大生を始めとするいわゆる高学歴と呼ばれる人たちって、理性偏重主義とまではいかなくとも、傾向としては理性に重きを置いて生きてきた人が多いと思うんです。たぶんね。rationality is power的なね。でも、どんなに頭が良い人でも結局自分の効用関数を完全に把握するのって不可能だと思うんですよね。前回の記事の言い方を引き継げば、演繹的な手法で自分の効用関数の形を正確に特定することは人間には不可能なんですよ。

 頭でう~~んと考えることはとても大事なんだけど、ある程度までいったら実行に移して結果を見てみた方が良い。その繰り返しによって帰納的に自分の効用関数の「概形」を把握していくことが、幸せになる上で大切なんだって話は前回言った通りです。もちろん頭で考えることはとても大切で、出来ないより出来た方が良いに決まっているんだけど、理性偏重気味の人はともすればそのバランスが崩れて帰納的に生きている時間が少なくなり、結果として折角の頭の良さが自分の幸せに結びつかない・・・なんてことはないですかね?筆者は割とそっち側に陥りやすいという自覚があります。筆者だけ?あ、まるで筆者が頭良いみたいに読めてしまいますけど筆者は頭が良くありません。2015年前期入試の合格最低点プラス0.0334点差で滑り込み合格した底辺なので。

 ともかく、理性だけでは幸せになれない。分からないことが多い状況で取り敢えず色々なことに飛び込んでいくことも、ロングスパンで見た時に効用を高める(幸せになる)上で大変重要だと思うのです。個人的にはこのことをずっと銘記して生きていきたいと思っています。

 

 では、理性は行動に劣るのでしょうか?いいえ、そんなことは断じてありません。

 

 最近思うのですが、個人的に面白いな、個性的でいいな、と思う人の共通点を見つけました。彼らは大抵の場合、「思考」しています。いわゆる標準的な物の見方に囚われない。自分オリジナルのフレームワークに従って物を見る。そして、それを外界に発信する。これにより、筆者は彼らの各々に固有の脳内システムを垣間見ることができる。そしてそれは、紛うことなき彼らの「人格」でもある。

 筆者は「発言や行動が一から十まであまりにも典型的な人」を見ると、軽い恐怖を覚える。人格が見えないからだ。考えてみてほしい。いわゆる「普通」とか「多数派」とか言われる感覚をあらゆる項目について有していることなど有り得るだろうか?筆者はその可能性は限りなくゼロに近いと思う。0.9^10≒0.349だ。だから、そういった人たちは本来の自分の嗜好を外界に表明していないのだろうなと、基本的にはまずそのように考えてしまう。仮に筆者の予想が正しいとして、次の疑問は「彼らは敢えて普通を装うために嗜好・感性を偽造して表明している」のだろうか?というもの。筆者はなんとなく、大半はそういう事ではないだろうと思っている。おそらく彼らは「自分本来の嗜好や感性を自分自身であまり意識・把握していない」のだと思う。何を言っているのか分からない方もいるだろうが、筆者はこの感覚が分かる。中学生の頃にそういう時期があった。自分が本当にやりたいものが分からない。欲求が不明。何をすれば本質的に満たされるのかが良く分からないから満たされない。これはおそらく、外部からやれと言われたことだけを忠実に実行する、それこそが自分にとって一番大事なことで、自分個人のやりたいことは二の次だと考えていたからだろう。今では基本的に自分の事を第一に考えているのでそのような場面はかなり少なくなったが、未だに少しその時のことが尾を引いているように思う。

 人間とは不思議なもので、一定期間自分の欲望を押し殺して何かの仕事に従事していると、その仕事を完遂した後でももともとの自分の欲望を忘れてしまうということが珍しくない(筆者だけ?(笑))。だから、そうなりやすい人は日頃から「社会的な要請、文化的な標準、倫理的な規範を一切無視したところにある、自分自身のやりたいこと、嗜好・感性」はどのようなものか?と常に自分に問いかけ続けるのが地味に大切だと思う。おそらくそれを無意識的に実行し、かつ発信することが出来る人が、筆者にとっての面白い人である。なぜなら、その固有性が平々凡々に見えるわけがないからである。そして、この問いかけこそが「思考(≠嗜好)」なのではないかと思うのだ。つまり極論、筆者は思考している(ように見える)人にしか躍動する人格を感じ取れない。

 もちろん、本当に自分の固有の好みが大半の項目において「普通」に近い人も中にはいるだろう。これに関してはその人が本当にそれが好きなんだなということが伝わってくれば筆者的には全然問題ない(何様だ)。固有本来の嗜好・感性と普通の嗜好・感性の距離は本質的に全く問題ではなく、前者を自分で認知・把握しているか?ということこそが筆者にとっての問題であるということは、ここまで読んでくれた賢い読者の方々ならお分かりだろう。

 自分に自分を問う作業即ち思考こそが、自分を自分たらしめる行為なのだと思う。思考すなわち問いかけという作業は、先程述べたが外部からの制約をなるべくはぎ取った先のオリジンを垣間見る作業である(人間個人を社会と完全に切り離して考えることは不可能だというような話を遠い昔にちらっと読んだ気がする。この点については筆者も全くその通りだと思っているので、敢えて「なるべく」という表現を用いた)。その作業は少し怖い。高確率で「普通」から遠ざかっていくからだ。でも、そこで見えた「違い」こそが自分と他者(この際、思い切って大衆と言い切っても構わない)を区分する上で重要になるのではないか。高校時代、生物の初回の授業で生物を生物として定義するための3要素というものを習った覚えがあり、その一つに「自己と外界を区別する境界がある」というようなものがあった。人間がこれを含むすべての定義要件を満たした立派な生物であることに疑いを挟む余地はないが、筆者は、人間が精神的な次元において真に人間であるためにはこれに加えて、思考を通じて自己と他者の違いを浮き彫りにする(自己と外界を区別する境界を認識する)必要があると考えている。繰り返すが、オリジンを覗いた結果、多くの「同じ」も見つかるかもしれない。しかし、違いが一つも見つからないということは殆ど有り得ないだろうとも思う。どんなに小さなことでもいいから、違いが見つかるくらいまでは思考した方が良いかもしれない。

 かのデカルトは言った。我思う故に我あり。これは全てを疑った彼が辿り着いた唯一の絶対確実な真理であり、「存在」についての一言(と、一般的には解釈されているはず)だが、筆者はこの言葉を自分なりに少しいじって解釈してみたいと思う。即ち、思考するから自分なのだ。あのニュースを見て人々はこう言うが、自分は本当にそう思うのか?と、一度考えてみる。その結果分かった自分の立場は問題ではない。とにかく、「自分の頭」でなるべく考える。この思考作業の積み重ねこそが、エッジの効いた「鋭い個」を作り上げるのだ。裏を返せば、思考を省き続ければ自分は自分でなくなるだろう。筆者は死ぬまで自分として在り続けたいから、この脳がまともに機能する限りは考え続ける。デカルト的な意味で言えば人間はほぼ無条件で「存在する」ことは出来るだろうが、「紛れもない自分として存在する」ためには、よりしっかりと「我思う」しなければならないはずだ。

 「思考」は、動物の中でも人間のみに与えられた特権ではないだろうか。その折角の特権を行使しないということは、自分が個人として存在することを放棄しているということ以前に、人間に生まれたことの有難みを無視しているとは言えないか。日本中の成人に、声を大にして言いたい。

 

 冒頭、ブログを書くのが楽しくて仕方ないと書いた。今回も楽しくて仕方がなかった。それは、自分がゼロベースで考えたことをこれ以上ない快適な条件で(誰にも邪魔をされずに一気に完結させられるし、文章にすることで自分の考えもまとまる)体系化することができるからだ。これも思考の一種に他ならない。だから、最高に「生きている」感じがする。本当に良い趣味を見つけた。だからこれを読んでくれているあなたも今すぐブログを書いて、何を考えているのか筆者に教えてほしい。他人のブログを読むことが最高に楽しいのは、やはりその人の内面すなわち固有の嗜好感性を知ることができるからだ。

 

 前半では帰納的な生き方を称え、後半では筆者に色濃く残る理性崇拝的な態度を前面に打ち出してしまった。もちろん今回の記事で伝えたかったのは後者の話だ。やはり人間に与えられた理性は素晴らしい。考えすぎだと友人に時々言われるし自分でもそう思うのだが、どうか愛すべき欠点として暖かく受け入れてほしい。

 

 次回は、前回キーワードとして挙げた「関数に感動」というものと、「固有の嗜好感性」という今回のキーワードについてお話したいと思います。

 

 さて今回の曲も迷いましたが、このテーマを最もストレートに表現しているこの曲にしました。中学生の時何度歌ったか。最高です・・・。それでは、歌詞に集中しつつ聞いてください、

ONE OK ROCK 「じぶんROCK」 - YouTube